<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明日(の死後)を明るく生きる希望

2014年08月30日 15時15分46秒 | Weblog
それからが長いんですぞ、それからが。



それからというのは、死んだ後のそれからの期間のことである。



生きている期間が1としたら、それからが10。つまり1:10だ。



生きている間の10倍の暇があると計算すれば、死後の長々しい間の、生活(必ずしも死んで過ごすだけではない)の手段をいろいろと考えておかけねばならないだろう。



なあに慣性の法則に則っていくだけですから、ご心配はいりません。生きている間のあれこれ因果因縁の法則が、同じ温度を保って、引き続いて続いていくだけです。



わたしが造った悪業善業が繰り返し繰り返し繰り返されていく。古代のインド人はそういう輪廻(りんね)から解脱(げだつ)をしたいと考えていた。



人を助けた善業によって助けられて行く。人を救った善業によって救われていく。人に優しく対応した善業によって優しく対応されていく。人を守った善業によって守られていく。そればかりではない。その逆もある。



・・・とすればこれはタイヘンである。同じ結果が果てしもなく続く、とすればそれはタイヘンである。

逃れる方法はあるか。(つまり解脱の方法はあるかということ)



ある。

結果を変えたければその原因になるものを変えればいいのである。或いは受け止めた結果を甘受して、それを恨まず悔やまず、そこからよい原因と指し変えればいいのである。



苦しみと悲しみを引き受ける、これがそうである。



どうしておれがこんなに苦しまねばならないんだ? 
どうしておれがこんな悲しい目に遭わねばならないんだ?
そう思うことがたくさん降りかかってくるが、因果説に依れば、それはすべてその原因をわたしが造ったことになる。



これを逆手に取れば、新しい原因を造れば新しい結果をもらうということになる。これで明日(死後の明日)が楽しみになるのである。



解脱は小乗仏教の自利の功徳であるが、その解脱はいま引き受けている結果の改造工程にあったのである。これが見付かったのだ。とすれば、高僧だけではなく凡夫にだってこれが可能になるのである。



現在の悪業を引き受ければいいのである。人を責めずおのれを悔やまず、自らがこれを受け取っていけばいいのである。そうすればそれは帳消しになっていくのである。消えてしまうのである。



業からの解脱。解脱の知見。解脱の工程。

この発見はアメリカ大陸新大陸発見ほどの驚きだったことであろう。



死後の輪廻、これが永久不変ではなくなったのである。

これで死後の世界が希望に彩られるようになったのである。現在をどう生きるか。現在のわが業火をどうやって消せばいいか。

他者を恨まず責めず、脅さず軽んぜず。おのれを嘆かず悔やまず、羨まず蔑まず。それを新しい次の原因にして新しい次の結果を待つ。

これで仏教は明るい仏教になったのである。
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なはあどかもふ=あなたはどう思う?

2014年08月30日 13時30分02秒 | Weblog
子持山(こもちやま)若(わか)鶏冠木(かえるで)の黄葉(もみ)つまで寝(ね)もと吾(わ)は思(も)ふ汝(な)は何(あ)どか思(も)ふ     東歌 万葉集巻14

子持山の若い楓の葉っぱが黄色に変色して紅葉するまでも長くこうしてあなたを抱いていたいものだとわたしは願っているのだが、あなたはどうなんだ。あなたもきっと同じ思いだろう。あなたはどう思うか、などと質問を発しながらも、歌っている若者はこれに確信が持てているような、余裕綽々の口ぶりである。

鶏冠木(かえるで)は楓(かえで)の古名。葉っぱの形がカエルの手に似ているところからこの名がある。

子持山は群馬県北西部にある山。標高1296m。那須火山帯に属している。豪雪地帯だ。(ふっふっふ。雪に閉ざされているときの楽しみは、おのこめのこの同衾をおいて他にはあるまい)

東歌(あずまうた)には方言が混じる。東歌は現在の流行歌みたいに広く男女間で歌われていたのかもしれない。



楓の木が紅葉してしまうまであなたといっしょに居たいものだと若者が思いを簡明直截に吐露している。このまっすぐなところが東歌の特長なんだろう。恋が成就したのだ。嬉しい嬉しいではしゃいでいる声が聞こえて来そうだ。万葉集の頃にも、都を離れた関東地方でも、この現代でも、幾つになっても、恋が成就するというのは嬉しいものだろう。歌にして歌ってしまいたい衝動に駆られるはずである。

汝(な)は何(あ)どか思ふ。あなたはどう思うか、と言って答を待っていながら、その実は同意同調を求めている。一心同体になったのだから、宜(むべ)なるかなである。

あなたはどう思うか。あなたもきっとそうだろう。そうだろうそうだろう。
「なはあどかもふ」 好きな人に確信を持ってこころ晴れやかに、一度は言ってみたい台詞である。

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ぷ。ご苦労なこっだ

2014年08月30日 13時10分55秒 | Weblog
ふふ。さぶろうは自己弁解ばっかりしている。おのれのハード面ソフト面がすこぶる貧相なので、それを逆手にとって、それでもいいそれでもいいを繰り返している。可笑しい。ぷ。ご苦労なこっだ。



そんな堤防工事をしなくてもよさそうなのになあ。一雨降れば、簡単に自己決壊してしまいそうに思うんだろうなあ。心配性なさぶろう。現実が無力なさぶろうだから、それも無理ないけどね。

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義を立てずに安心が得られているか

2014年08月30日 12時08分44秒 | Weblog
ツリフネ草が山陰(やまかげ)で赤紫色の舟を吊しています。(黄色のキツリフネもあります)誰を乗せて、そしてこれからどこへ船出するのでしょう。



ツリフネ草は、義なきを義とす。大空も義なきをもって義とす。行く水も義なきをもって義とす。義なくして安らかなり。

人間のさぶろうはどうか。義なくして安らかにしていられるか。義を立てないでも安んじていていいか。さぶろうは考える。



「義」は人間のこしらえた物差しです。自己肯定の道具です。当たり前ですが、自然界のツリフネ草はこれ(人間のこしらえた物差し)で計量をしないでもいいのである。そういう面倒なことをしないでも、ずばりその位置でそのまま、安らいでいられるのである。



ツリフネ草は仏さまの法(ダンマ)の世界(法界=ほっかい)を生きています。屈託なく伸び伸びと生きています。自然界という法界はすでに完了しているので、義という道具で弄(いじ)くり回さなくともそのままで安んじていていられるようである。



ツリフネ草は夏の草花。湿気を好んでいるので、谷水が滲みだしているところに生えている。静かだ。さぶろうは、自然界の植物が無義を実行している、と考えている。人間のさぶろうは、そうはいかないでいるので、なおさらに慕わしいのだ。

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小人物には小人物の満足がある

2014年08月30日 11時44分39秒 | Weblog
へえ、安上がりな男であります、さぶろうは。お金がかかりません。芋の蔓を抓(つま)んできてこれの皮剥き筋剥きをしていれば、それで数時間は幸福な顔をしていられます。芋は畑に栄えています。草取りをすると長く長く伸びた芋の蔓が邪魔になるので、これを短く端折ります。このとき芋の蔓についている茎がもったいないのです。捨てるに忍びないので摘み取ります。

夕食が済んだ後に、台所の床に尻を着けて筋剥きに作業にかかります。芋の蔓には灰汁があるので、指の爪が真っ黒になります。剥いた筋がボール一杯になります。終了するまでずっと黙っています。なかなか根気の要る作業です。これに醤油と味醂と唐辛子を絡めて炒めると、次の日の酒の肴になります。

「小欲知足」とはちょっと違うかも知れませんが、わずかに芋の蔓の筋剥きで足りてきます。社会に貢献するような大きな仕事をして役に立った方がいいに決まっていますが、そんなことができなくても、こころのひもじさが癒やされます。

「おまえ、こころの容器が小さいなあ。たったそれくらいでよしとするのか」と揶揄されそうですが、小人物には小人物の満足が用意されています。へえ、安上がりな男であります、このさぶろうは。その代わり、「どうだ、おれは偉いだろう」と威張ったり、まわりにいる人にそれを吹聴したりはできませんけれど。
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ただ黙々と黙々と農作業す

2014年08月30日 10時37分10秒 | Weblog
草を抜き、有機石灰を撒き、牛糞を混ぜ、土作りをして、深く耕し、そこにフカネギの苗を植えつけました。根がついて成長して行くにつれて、土をより多く被せていくとそこが白葱になっていきます。夕方3時間ほどの農作業でした。なんにも考えずに黙々と黙々と作業をしました。これでこころの港が満潮になりました。
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昼もかなしけ 寝床(ゆとこ)の夜もかなしけ

2014年08月30日 10時07分25秒 | Weblog
筑波嶺(つくばね)のさ百合(ゆる)の花の 寝床(ゆとこ)にも 愛(かな)しけ 妹(いも)そ 昼も愛(かな)しけ    防人の歌



愛(かな)しけ愛(かな)しけ。人というのはかなしいもんですなあ。愛(いと)しがる愛(いと)しがる。夜も昼も。気が狂ったように、そばに可愛い妹(いも)を引き寄せて愛(め)でていたくなる。触れていたくなる。筑波嶺の高嶺の花の可憐な百合のような恋人は、所詮は高嶺の花。わたしは軍の陣地にあって、あなたを忍ぶだけ。今夜の寝床(ゆとこ)も一人の寝床(ゆとこ)である。



防人(さきもり)でなくったってそうだよ。万葉の昔ではなく、2014年であっても、そうだよ。少しも変わらないよ。かなしけ、かなしけ。かなしいもんだよ。さみしいもんだよ。秋風がにわかに吹き初めて、ますます気が狂うように、ものぐるしい。妹(恋しい人)の百合の姿を忍んでいると、たちまち瞼の裏の涙が恋しさで沸騰してくる。

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この世にあるはずの愛情を抱きしめたい

2014年08月30日 09時35分14秒 | Weblog
おはよ。ふふふ。おはよう。

そおっとそっと。コオロギを恐がらせないように、逃げて行ってしまわれないように。

部屋の畳にまで、何処から侵入を謀ったのだろう。コオロギが触覚を振り回す。

おはよ。爽やかないい天気だね。こっちへおいでよ。気温28度だから、声温度も28度に合わせて喋る。

空の青がたまらない。気温が低いので長袖をしている。もうすっかり秋の気配だ。

おはよ。おはようを聞いてくれる人に、会いたい。

ふん。会いたいと思うヒト属の人が、では、おまへに居るか。沈黙が流れる。居てほしい。

では、その人はすぐにでも会いに来てくれるか。来ない。いつまで待っていても、来ない。

おはよ。声に出してもう一度つぶやいてみる。

森の中の木の幹でもいい。頬を当てて、手を回して、この世にあるはずの愛情を抱きしめていたい。
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