<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

草や木はまわりの風景を仏さまの目で見ているみたい

2014年08月26日 16時17分44秒 | Weblog
「おでいげにおいでおいで」の「おでいげ」は、(前にも述べましたが)「淤泥華」と書きます。淤泥は泥土でできた穢土(浄土の対語)のことです。穢い泥に根を下ろしていながら、清らかな蓮が咲いています。穢土に咲いているのは、悪に根ざした人間という蓮の花です。

「おいでおいで」と誘っていますが、誘っているのは仏陀です。わたしにはその力はありません。淤泥華は直接は蓮の花を指していますが、もちろん仏さまのお浄土のことです。仏国土へおいでおいでです。

そこは死んだ後で行くところでもありましょうが、死なないでも行けるところです。わたしはそんなふうに解釈をしています。



ここへ来ると仏さまが仏さまの目(眼鏡かなあ?)を無料レンタルされます。仏さまの目を借りて見ると(不思議や不思議)わたしたちはたちまち仏さまになります。(ええっ、そんなに簡単にできるものか!)しかしそれを仏さまがお望みです。だから、ほんの束の間でも「仏さまになったわたしたち」を一番喜んで迎えて下さるのは仏さまです。

仏さまの目で見たらもっと違った風景が広がっていそうに思えます。悪人のわたしが仏さまになれるはずもなく、仏さまのように清らかに見えるはずはありませんよね。でも、仏さまの目で見てはいけないのではありません。(草や木はどうも周りの風景を仏さまの目で見ているような気がします、楽々と上手に。)

仏さまの目で見たらこの世界はどう見えるのかしらん? これはトライする価値がありそうです。

詳しいことはわたしには分かりません。(わたしは僧侶のように仏教を専門的に勉強しているわけではありません。望遠レンズ推論外野席にいます)みなさんが個々人の携帯メールで仏さまにお尋ねになって下さいね。

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ヒラケゴマ! 重い扉が開いた!

2014年08月26日 15時16分10秒 | Weblog
人生の最後の局面でくるりと反転をします。好転をします。そういうお話をします。閉ざされていた扉が開きます。



否定、否定、否定、否定、否定、否定、徹底して否定されて、自己否定して、そこから逆転の圧倒的世界全体肯定が始まる。疾風怒濤のような。

どうしてこれだけの否定をかいくぐらなければならなかったのかは明かされないが、ともかく深い深い暗部の否定をかいくぐって波の上に出て来る。

月が出て輝いている。星が出て輝いている。



これで瀕死の者が蘇生する。むくむくむくむく蘇生してくる。それから先は湧き上がる雲のように奇跡が次々巻き起こる。暗が明になる。夜が明ける。

連続する否定に耐え得ざる者は、最終ゴールのこの地点、即ち全肯定という高台へは登り着けない。

スポーツ界だけではなく、人生にも逆転はあるのだ。

不生。不滅。不増。不減。不垢。不浄。無色、無受想行識、無老死、無苦集滅道・・・そうではない、そうではない、そうではない。そうではない・・・・。ばったばったと打ち消しが続く。



最後の100mのところで肯定が来る。ここがパーラミターだ。完成地点だ。

圧縮して圧縮して圧縮して、点火させて爆発が起こる。大悟徹底がのこのこ歩いてくるのに出逢う。

ここへ来てものが見える。よきこと次々起こる。見えたものが次々によいことに豹変する。

エー ハンニャハラミッタ コ トク アノクタラサンミャクサンボダイ
(ただ仏の智慧に依るが故に、無上の正等正覚の悟りを得たり)
 


迷って迷って迷って、それでよかったということになる。苦しんで苦しんで苦しんで、それでよかったということになる。悲しんで悲しんで悲しんで、それでよかったということになる。倒れて倒れて倒れて、それでよかったということになる。それでよかった、ここがクライマックスだ。

般若の智慧だ、これが。パーラミターは完成ということ。



般若心経の最後に真言(呪文)がある。これで締め括る。

ギャアテイ ギャアテイ ハーラーギャアテイ、ハラソウギャアテイ ボデイソバファ。

ここへ来たぞ ついにここへ来たぞ、ここへ辿り着いたぞ 辿り着くべきところ(こころの彼岸=全世界大肯定)へ辿り着いたぞ、悔いはない、もうこれでいい。

これは呪文だ。大歓喜の叫びだ。ヒラケゴマ! 扉が開いた!


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地獄からの生還を体験した三郎

2014年08月26日 12時14分58秒 | Weblog
50才のころ、強烈な鬱病を患った。毎晩毎晩、夢地獄へ突き落とされた。恐怖のおののき地獄だ。ほんとうの鬼に捕まって、煮え湯を飲まされた。棒で打ちのめされた。狂人になっているよりなかった。阿鼻叫喚した。眠れない。眠れば即地獄行きだから眠れない。寝言ではなく起き言をしてひいひい喚いた。地獄は思ったよりも広かったので、毎晩新種の地獄現場に次々と連行された。

(家族はつらかっただろうなあ。こんな自分に向き合ってくれたのだ、大変だったろうなあ)

不治の病に罹ったと思った。到底抜け出せないだろうと観念をした。ところが抜けた。ある日ひょっこりと抜けて出た。地獄のトンネルに出口があったのだ。

出て数年して地獄漫遊をしたことを自慢にしだした。生きながら地獄を漫遊できたのはおれ一人かも知れないぞと内心でほくそ笑んだ。(ほんとうはみんな出て行けるけどね)いい経験をさせられたと思った。選ばれた人間だと思った。なにせ、誰もが見られない地獄を見せてもらったのだ。ほんとうの鬼にも出会ったのだ。依怙贔屓されたのだと思った。

(振り返ってそこを見ればみんなそうなんでしょうなあ。喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言いますからなあ)

自力で戻って来たのではない、ということも同時に強く思っている。後押しがあったのだ。導きがあったのだ。援助があったのだ。何度も何度も救助が入ったのだ。これも後になってしか言えないことだけど、始めから終わりまで守られていた、ということになる。それを知らされた。

龍神というとこの世には存在していないと一蹴されそうだが、いまのわたしはそうしない。鬱病になる少し前の夜に、夢でだが、龍神が大空から出現してわたしの背中にするすると入り込んでいった。その図を鮮明に覚えている。わたしが地獄巡りをするということをいち早く察知してわたしを守りに来たのだ、と信じて疑わないでいるのだ。
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いったいぜんたい どうなってんだ

2014年08月26日 12時01分13秒 | Weblog
ではこれから列の2番手をよろこびます、と言うと、1番手が、わたしをよろこばせ終わってからにしてくださいと注文している。よろこばすのがいっぱいあって、列を作って待っているが、なにせ長い列だ。糸瓜、瓢箪、朝顔、向日葵、赤とんぼ、油蝉、風、水、音、光・・・・どんじりに列んでいる鰯雲が威勢良く泳ぎだして、まだかあと催促をする。待ってろ、僕は大声を出してみんなに整列を促した。自分以外をよろこばせるだけじゃ、つまらないぞ。そうだそうだ。どうなってんだ、いったいぜんたい。こころが不平を鳴らしている。
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そんなことはありませんぞ

2014年08月26日 11時42分35秒 | Weblog
行動しないと行動した気にならない。そんなことはありませんぞ。

オオヤマレンゲの広々した葉っぱが空中水泳のバタフライをして汗を流している。

庭先で夏風がさかんに拍手をしている。パタパタが聞こえる。

これで目の運動と耳の運動をした。

今度はどこを動かそう。

こころを空の運動場に連れて来て、入道雲の傍に列ばせてやった。

やつ、照れてるな。負かそうというつもりでいるのだな。

むくむくむくむくの湧き上がり度レースがスタートした。

やつも手足首腰をくねらせてむくむくむくむくしているが、すっかり圧倒されているようだな。

「どうだ、いい運動になったろう」帰ってきたこころに口が声を掛けている。

これだけだが、口もそれなりの運動をして、夏の日を遊んだようだ。
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夏の過ごし方 その2パターン

2014年08月26日 11時34分02秒 | Weblog
オニヤンマが大屋根の向こうから滑走をしてきた。ジェット機かと思った。それだけの速度を出せない夏雲が、縦横無尽に滑空する自由主義者アスリートを、横目で見ている。
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彼はそこで王になっている

2014年08月26日 11時23分36秒 | Weblog
コガネグモがでっかい蜘蛛の巣を作ってその中心にいる。木と木の間から向こうは夏空である。彼はそこで王になっている。王を揺らしているのは涼風である。いい気持ちだろうな。
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あなたがわたしを輝かすのは何故か

2014年08月26日 10時52分29秒 | Weblog
あなたがわたしを輝かしておられるのは、何故でございますか。

それをあなたに問う。

それを問うていると、ここへ出る。

すなわち、輝かしているあなたと輝かされているわたしとがいて、今生のここに輝き合う場、「輝きの世界」を造っていたのだ、と。

この理解は眩しい。くらくらするくらい眩しい。

眩しいが、輝きの世界の実現(現成)は虚仮でもなく不実でもない。真如界の出現なのだ。

あなたはわたしを待っていたのだ、わたしを待ってそこで始めて、輝きの世界が現成したのだ。



夏空が広がってきた。積乱雲の間合いから眩しい光がわたしに差し込んできている。
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「光明宇宙とは何者ぞ」は「わたしとは何者ぞ」に通底する

2014年08月26日 09時37分56秒 | Weblog
密教の説く蜜嚴国土(もしくは蜜嚴浄土)は大日如来の建設された仏国土である。身口意の三密で荘厳された世界である。これは華厳経に説く華蔵界、浄土系の説く極楽浄土にも合一するだろう。いずれも仏陀の真如世界である。

それはどこにあるか。

ここにある。

ここにそれを見ることができる者にはそれがここにある。真如は宇宙に遍在しているので、ここにもその真如はあるのだ。わたしがそれを見ることができさえすれば、それはあるのだ。

それは見えるものなのか。

肉眼で見えるか。

心眼でなければ見えないのか。瞑想裡に見えてくるものか。

自力でそこへ到達できるのか。わたしにそれができるのか。

大日如来の加持はわたしを遮っていないのでわたしも包摂されているはずである。であれば、わたしにもそれが見えるようにしてあるはずである。



見えてこない世界を斡旋しているはずはない。それだとそれはインチキ宗教である。見えてくる世界があるということの提示である。宗教はそれを提示する。

ある、と断言する。

大日如来の蜜嚴浄土はある、と断言する。

そうであればそれに従えばいいのである。従うとはどういうことか。

見ないで信じるということである。

ここは大日如来の蜜嚴浄土であると信じ切ってそれを甘受すればいいのである。

ここに生きていることをよろこべばいいのである。



大日如来は密教の教主である。サンスクリット語ではマハーバイローチャナ。華厳経では毘盧遮那仏である。光明の大宇宙そのものと言ってもいいかもしれない。

わたしを照らしているもの、わたしを輝かしているもの、わたしを生かし続けているもの、わたしをよろこばそうとしているものがある。

それがあるので、わたしは照らされ輝かされ生かし続けられよろこばされていることができる。

その当体の抽象する対象世界を尊格化して大日如来と呼びならわして賛仰尊崇したのだ。遍く照らしているところから、遍照(へんしょう)如来とも言う。



照らされ輝かされ生かし続けられよろこばされているそのわたしを発見すること、それが大日如来の発見であり、蜜嚴浄土の発見である。

そういうふうにわたしは理解している。(間違った理解であるかもしれない)

わたしを輝かして止まない「仏陀とは何者ぞ」。この問いは、仏陀に輝かされて止まない「わたしとは何者ぞ」に通底する。
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長く長く引き合っていられる体内磁力

2014年08月26日 09時09分32秒 | Weblog
人が恋しい。同性同士が互を友としているのもいいが、異性と心通わせているのもいい。

同性異性どちらでも慕わしく懐かしい存在だが、駄弁を弄しないで、黙っていてもいい方がいい。

あれこれそこでそうして併存していることへの説明の、必要がない方がいい。

(わたしは・・・だから、・・・の理由があって・・・あなたに会っています、などという説明抜きで)

吹き渡ってくる涼風の中で、何時間でもじっとしていていられる方がいい。

それでも退屈しない方がいい。

(・・・の方がいい、ばっかりだね)



互が無言で引き合っているというのはいい。いいね。

(無行動のまま、長く長く引き合っていられるとすれば、凄まじい体内磁力を消費するだろうね)

一日経って二日経って、1週間1月経って、それからやおら引き合った末に一体になるとすれば、それはやはり異性の方がいいだろう。自然だろう。

(その間ずっと見つめ合っていたら、目が疲れるよね。ときどきは遠くの連山を眺めやった方がいいよね)



はるかなる岩のはざまに独りゐて 人目思はでものおもはばや  西行

(岩の聳える山の辺りへ行ってそこでひとりゆっくりとあの人のことを思っていようか。そこでなら人目に付くということもあるまい)

西行さんは、会わないでもいい方らしい。物思っていたらそれでいいらしい。ま、それも恋愛の一種か。

一人居て好きな人のことを思い続けるとなると相手に相当の引力魅力がないと続かないよね)
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