<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

どんな恐怖をも感じることはないであろう

2014年08月24日 21時16分05秒 | Weblog
わたしを生み出す者が生み出す努力を尽くしたのでわたしが生み出されたのである。

わたしは、したがって、どんな恐怖をも感じることはなかった。そのようにせしめられたからである。

わたしを消滅させる者が消滅させる努力を尽くすのでわたしが消滅されて行くのである。

わたしは、したがって、どんな恐怖をも感じることはないであろう。そうせしめられているからである。

そしてわたしを生み出す者もわたしを消滅させるものも、わたしの前に顔を出すことはなく、わたしがこの舞台に主人公として立っていた。

この間、日はいつものように明るく輝いて規則正しく東の山から昇って行き、いつものように静かに厳かに西の海の水平線に沈んでいった。
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それだけの薄っぺらさで一日が暮れたのである

2014年08月24日 21時01分09秒 | Weblog
あの人に会いたい。会ってはならない。会ったところでどうしよう。稲田の上を赤い精霊(しょうろう)トンボが飛び交った。さぶろうは大川に懸かる橋の袂まで行って、そこで引き返して来た。夕空いっぱいにあの人が茜雲になって浮かんだ。それだけの薄っぺらさで、さぶろうの夏の一日は暮れたのである。
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皆空(かいくう)の掟を破る

2014年08月24日 20時37分15秒 | Weblog
さぶろうはインチキである。そんなインチキはそぶりも見せないで、つまり会って嬉しがっているなどという感情はそのそぶりも見せないで、美しい人に会ったのである。そして何食わぬ顔をして何度も何度も美しいその人の横顔を見たのである。さぶろうはその度に美しい美しいをこころの中だけで、つまり言葉になどは出さずに己自身に向かって告白した。その人はさぶろうをインチキさぶろうと思わずに立ち去っていったようだが、あるいは的確に見抜いていたのかも知れない。さぶろうはインチキである。若く美しい人を見てはいけないという掟を守っていない。仏陀の皆空の掟を破っているのだ。人が美しい人生を生きて美しい表情を浮かべているという事実。できるだけできるだけ、それをわたしに認知させてはならないのだ。
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わたしはもうすぐ泣き止むであろう

2014年08月24日 20時04分09秒 | Weblog
わたしがここにいるのは短い期間だ。あなたがここにいるのもまた短い期間である。

ここは学校である。

さまざまなドラマの主人公になってわたしを学んでいる学校である。



何を学んでいてもいいことになっているが、わたしが何者なのか、わたしをここに来させた者が何者であるか、それを常に問われているので、その答を出そうと躍起になっているようだ。

どこから来てどこへ行くのか。その責任の一端も自分で負っていて、答を出そうとしている。

ここへ来るまでにどんなことを考えてどんなことを実行してきたか。ここへ辿り着くことまでにどんな過酷な運命を乗り越えて来たか。どれだけの意思を積み上げて来なければならなかったか。そして何処へ行くか。



やがてその短い期間が過ぎて終わりが来る。誰にも終わりが来る。

夏の蝉はもうすぐ鳴き止むであろう。わたしもまたもうすぐ泣き止むであろう。笑い止むであろう。



わたしをここへ来らせた者、わたしはそれを仏陀と呼んでいるが、そのゆえにわたしは頗る楽観主義でいられるようである。良い方へ良い方へ、楽な方へ楽な方へ考えていればいいからである。

よっていつも怠け者であって、不勉強である。自堕落である。勤勉さがない。そうであっていいはずはない。

仏陀への依存をしないで真剣に学んでおのれに向き合っている人たちとは、従ってその真剣さという点で大いに落差があることも否めないのである。
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わたしはよろこびの宇宙に住んでいるか否か

2014年08月24日 19時50分27秒 | Weblog
わたしはよろこびの宇宙にいる。

そんなことがあるものか、と人がわたしを揶揄したところで、これは覆されることはない。

なぜなら、わたしがそれをそう思っているからである。

よろこびの宇宙にいるわたしである。わたしもまたこの宇宙にいることをよろこんでいる。

よろこびの宇宙にいることができることより大きなよろこびはあるまい。

もちろん、このよろこびの宇宙にいるのはわたしだけではない。山川草木の悉くがそうである。山川草木でさえそうなら、有情のわれわれ人間がそうでないということはないのだが、われわれ人間はわたしの思議を重んじているので、これに逆らうことも自由である。

わたしはよろこびの宇宙になぞ住んでいるのではない、と。そう思っていてもいいのである。

よろこびの宇宙の住人でいられることをわたしは大層誇りに思っているのだ。

だからここに居る間はできるだけそれをよろこんでよろこんでいたいと思っているのであるが、煩悩無明の厚い雲に覆われて閉塞されているときには、そうではない。

そういうときにはわたしはここに居ることを疎んでいて軽んじていて粗末にしているだけである。そしてそういう閉塞のときがしばしば訪れていることも事実である。
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仏とわたしは今ここに現に在って成仏す

2014年08月24日 18時08分59秒 | Weblog
仏教は、第一に「仏の教え」である。

この場合の仏は釈迦牟尼仏、お釈迦様である。仏道の創始者釈迦牟尼仏のご説法を聞く。

第二に、「仏に成る」という教えを受け止める道である。

もちろんこのわたしが仏に成るのである。仏に成るのは難しい。顕教では、修行に修行を重ねて仏に成ろうとするが、これが達せられるかどうかは分からない。ゆえに、出家者でなければ仏にはなれない。であるから、在家者は、成仏、つまり仏の悟りを開くことは、とてもとても覚束ないことになる。浄土宗系では、死んだ後に仏の国、お浄土に趣いたところでこれが約束されるとした。

第三に、「仏である」という教えである。主語はわたしだ。わたしが今現に仏だという大胆な説である。

仏が今現在にわたしに法を説いておられるのだから、これを聞いているわたしもまた等しく仏であるという論である。仏の教えを聞くことのできる者は仏に限られるからである。仏がわたしをそこまで高く(あるいは正当に)重んじて評価してくださっているという矜持がここにはある。

密教ではこれを即身成仏とした。死んだ後になってようやく仏としての待遇を受け取ることができるとした従来よりも、インスタントである。何しろ、今ここで現に仏と会えるのである。

今居る世界を否定するか、それとも肯定するか。仏のいない世界とするか、仏の居る世界とするか。

仏の居る世界にわたしがいるとすれば、仏はわたしを仏にしないではいないはずである。100年後にだとか、1000年後にだとかそんな悠長なことを言ってはすまさないはずである。苦悩に沈んでいるわたしであればなおさらに、わたしの苦悩を今すぐに解決して救済をするはずである。そして、自分と同じ仏にするはずである。なぜなら、仏に成れば一切の苦悩は解決されるからである。



「今現在説法(こんげんざいせっぽう)」ということをわたしは今日考えているようである。「今、仏が現に在(い)まして法を説きたまふ」ということをである。

今ここに仏が在(い)まして最高の法を説いておられるのであれば、わたしがその法に感化されないではいないからである。わたしが感化されないような法を、仏陀が説いてはおられないはずである。

わたしは仏陀の今現在説法に頷いているはずである。なにしろ仏陀が直接にわたしに来てわたしに説いておられるのである。

これが即身成仏である。

わたしと仏陀とが即時に同身して仏に成っているのである。仏陀はわたしと仏陀というふうに身を分かってはいないはずである。

(「はずである」「はずである」ばかりを繰り返しているので、信憑性に乏しいのだが・・・)



死後に仏に成るのではなく、いまここで仏に成る。この主張はこころよい。仏に成るということがどういう具体的な現象を指しているか。わたしは、仏の教えをいまここで聞いている、これだけでもいいと思っているのである。

仏の教えを聞くことがあるか。

「山川草木悉有仏性」であれば、山川草木はことごとく仏の教えを説いているはずだからである。これを聞く。これを見る。これに従う。これを喜ぶ。



道元禅師は、「峯の色渓の響きもみなながらわが釈迦牟尼の声と姿と」いう歌を残された。
この世を肯定している山川草木はことごとく大悟徹底して、仏の姿をして仏の説法をしているのである。山川草木は仏の法(ダンマ)を生かし、それに生かされている現物だからである。

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夏の青空を仰ぐにはいかなる義も無用

2014年08月24日 17時55分41秒 | Weblog
仏法は義なきを義とす。
いわれいかんとなれば、仏法は無義のみのりなればなり。
われの義の盾を立てて構える帰依讃歎にあらず。
無義にして無礙なり。義を以て、さえぎらるることなきなり。
ひと思いに呑み込んで仏法を腹におさむるなり。
仏法とは大空なり。われをば耀かして止まぬ青空なり。
青空をおし仰ぐにいかなる義をも無用なり。
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大空のやさしさにしっとり濡れる

2014年08月24日 17時47分28秒 | Weblog
雨が上がらないので雨の中のサイクリングになった。

カンナの大きな葉が濡れていた。韮の白い花が濡れていた。

水量の多い井樋の水面が濡れていた。橋の欄干が濡れていた。

走って行く顔の表を叩いてそれが流れて行くのにまかせて、手も足も服も濡れた。

濡れているのは、大空のやさしさに濡れていることのように思われた。

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犬を恐がるひい玉の小ささ

2014年08月24日 17時39分13秒 | Weblog
ああ、恐かった。

サイクリングに出た。大きな黒い大きい犬2匹を散歩に連れて行っている人とすれ違った。狭い農道である。ロープを長く持って犬の自由を尊重しておられるので、追い越していけないが、せっかくの自由なのだから、道を空けてくださいとも言いづらい。後ろをしばらくつけていた。気がつかれて、道を空けてもらったが、犬は見知らぬ人に興味を持ったのか近づいてくる。「どうもしません、かみついたりしませんよ」と声を掛けられるが、大型の犬だ。恐い。ひい玉の小さい男だなと言われそうだったが、実際そうだからしようがない。自転車を降りて、自転車を壁に仕立てて歩いた。ああ、恐かったあ。
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多重人格者のさぶろう

2014年08月24日 16時16分45秒 | Weblog
極重悪人から救い上げていくのが仏陀だ。

これをしないのであれば、仏陀にはなれないのだ。



仏陀が極重悪人のわたしの所行をじっと見つめている。

それをそうだと知った上で、尚且つわたしの悪行は止もうとしない。



わたしは嘘つきである。二枚舌である。多重人格者である。言行不一致者である。

この苦しみを逃避しようとしてかかる者である。



そしてムラサキツユクサの咲いている野原へやって来る。

仏陀に成った仏陀は、わたしを救い取ったが故に仏陀となったということを、わたしは慚愧し、そして歓喜する。



夏の日差しが差している。

仏陀とわたしとが、ムラサキツユクサを、ここへ来ていっしょに見ている。
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