不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あなたはわたしの生き死にの主宰者

2014年08月31日 10時27分00秒 | Weblog
秋づけば尾花が上に置く露の消(け)ぬべくも吾(わ)は思ほゆるかも    日置長枝娘子(へさのながえのをとめ) 万葉集 巻の8

すっかり秋の気配になって尾花ススキの葉末に露がたまるほどの涼気。わたしはあなたが去って行った後には、この尾花ススキの露のようになってしまうことでしょう。あなたの葉末を落ちた露は(この世を)消えてしまうしかありません。(わたしの生き死にの主宰者はあなたです。もっと強くわたしを抱いていてください)

恋の歌としないでもいいかもしれない。露の命のわたしが消えて行ってしまうという無常を噛みしめていると読んでもいいかもしれないが、そこに好きな人を配置すると歌が人間の体温を貯めて俄然あたたかくなってくるようだ。

いやはや、そこまで思われている殿御にあやかってみたいものである。よほどのイケメンだったのだろう。よほどの人間的魅力を醸していたのだろう。セックスアピールを放っていたのだろう。とするとそこで、三郎ははやばや失格してしまうのだった。

明日からは九月。尾花はすでに穂を見せている。途端に涼しくなってきた。露も置くようになるだろう。秋になれば、万葉の時代の歌びとたちはいよいよ人を恋する力をいや増して加えていくのだが、現代を生きるさぶろうは、情けないことにこれ(情の厚さ)を羨んでいるばかりのようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の日のお天道様にも甘えている

2014年08月31日 10時14分36秒 | Weblog
久しぶりに血糖値を量ってみた。恐る恐る。そうしたら93mgだった。朝食前の空腹時血糖値は100以下であれば正常値の範囲。顔面が桜の咲いた桜ケ丘になった。朝ご飯がおいしく食べられた。(朝ご飯は若布と玉葱の味噌汁つきだった)240を超えていた頃の断食療法のことが懐かしく思い出されてきた。病をいただいたからこその桜ケ丘だった。

有り難いと思う。さぶろうは単細胞だから、どうしてこういう具合に正常値を保つようになったのか、説明ができない。それで、大風呂敷を広げて、「お天道様ありがとうございます。あなた方がみんなしてこのさぶろうを守ってくださっているので、さぶろうは元気でいられます」などと甘えた声を出している。夏の日のお天道様にも甘えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あたたまりたい

2014年08月31日 09時42分45秒 | Weblog
憎む感情よりも愛する感情の方があたたかい。憎しみは、どうしてだか、体温を下げてしまうところがある。低体温になると血の巡りが悪くなってしまうのかもしれない。

あたたまりたいなら、だから、人を愛した方がいい。人を愛せないなら、人以外を愛するという手もある。キリスト教では敵を愛せよ、とも言う。

愛と憎しみは葉っぱの裏表である。葉っぱは風にひらひら舞うので、表を見せたり裏を見せたりする。どんな風が吹いてくるかで、変化する。

ずっとずっと愛だけでという具合にはいかないところがあるので、面倒である。もっとも愛していた人をもっとも憎むということも起きる。

愛さないでいたら、では、憎まないでいられるか。どうだろう。しかし、ずっとずっと愛さないでいたら、体温が下がってしまうだろう。冷え冷えとなってしまうだろう。そうなれば、湯たんぽをたくさんいれてないと寒くて寝付けないだろう。

じゃ、少しだけ愛そう。互いに傷つけないくらいに。手の届かない位置にいて。撫でず触らず。でも、そうだと淋しくはないか。淋しいだろう。淋しくならないために人を愛する、という手合いもあるかもしれない。



憎む感情よりも愛する感情の方があたたかい。あたたまりたい。

信濃なる千曲の川の細石(さざれし)も君し踏みてば玉と拾はむ   東歌

信濃の地を流れ下る千曲川の浅瀬であなたにお会いしましたね。あなたがそこをいそいそ渡ってこられましたが、あなたの足に踏んだ小さな石ころは、あなたが足に踏んだというだけで、愛しい玉に変わってしまいました。愛の玉石はいまもわたしの胸の中でわたしをあたためていますよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしの悪を糾弾されたらひとたまりもない

2014年08月31日 08時54分32秒 | Weblog
許すということと、許されているということは別次元なのかも知れない。



「へえ、許されているばかりで」と言ったのは念仏をよくする妙好人の一人だったと覚えている。

「なあ、我慢がならんことでも我慢するんだぞ、許せないことでも許す大きな腹を持つんだぞ」とのご説法を聞いた妙好人が、ぽろり。「へえ、許されているばかりでございます」



この場合は、仏さまに許されているという受け止めだろうか。世間様に、だろうか。



仏さまがわたしを許している。許すの主語は仏さま、目的語はわたしだ。念仏者にはこの逆は成り立たない。わたしが仏さまを許している、とは言えない。どんな苦労を背負わされていても。

わたしが許す、というときには、わたしはとても高い立場に立っていることになる。念仏者が仏さまにもの申したり命令したり注文したりはしない。



「許す」は、だから、人間が人間を許すと言う場合だろう。人間はこの切り札をトランプのように、使うことができる。



仏さまから許されている自分が、許すというカードを対人間に行使する。妙好人はこの自己矛盾を超えられなかったのかも知れない。



憎い、憎い、許せない、許せない。恨みに思う。殺そうと思う。これが地獄を造る。鬼を造る。争いの修羅場ができる。強い憤りのエネルギーに押し潰されて、あたら大切な一生をこれに費やしてしまうことにもなる。しかし、憎しみは耐久年数が長いので、なかなか消滅することがない。これで身を焼かれる。



自分一人が正義のつもりでも、敵は敵でそのつもりでいるのだから、食い違いがそこに起こる。声高におのれの正義を叫ぶ争いになる。正義者の応酬になる。義の言い争いになる。義は、おのれ一人を正義者とする。正義者でなければ「許す」は成立しない。正義者でなければ、敵を悪とすることはできない。



「許されている」という受け取りができたら、わたしだけが正義者だというこころのハリやコワリが緩くなる。こうなるとわたしの中の罪が見えてくる。わたしの中の悪が見えてくることになる。



人を許せば、こちらの腹の中に堆く積もっている恨みや憎悪の強いエネルギーを解放するということにもなるだろう。こうやれば軽くなれる。過去の執着の重さから軽くなれる。軽くなった分は、明るい未来へのエネルギーに差し替えることができるはずである。



今朝は妙好人のことを考えていた。「へえ、わたしは(仏さまに)許されてばかりでございます。(仏さまを?)許そうなんてことはとてもできかねます」



今日で8月が終わる。明日から9月。ワシワシ蝉がせわしなく鳴いている。草むらには秋の虫がさまざまな音色で鳴いている。

わたしの悪を糾弾されたらひとたまりもないはずであるが、蝉も虫もわたしを糾弾することがないので、わたしはこころを緩くしてしばらくこれに耳を傾けていられるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一人遊びはゆっくり ゆっくりでいいのだ

2014年08月31日 08時38分15秒 | Weblog
プランターに山東菜の種を蒔きました。土作りをした後で。数日したら発芽が見られます。楽しみです。間引き菜は朝の味噌汁の材料になります。

タオルで禿頭をぐるぐる巻いて、移動用椅子に座り、ゴム手袋をし、小さな農具を片手に、夕方2時間~3時間ほど作業をしました。

6時半になったので隣の神社さままでサイクリングに出掛けました。日が短くなっているのか、帰りがけにはやや薄暗くなっていました。

帰宅して薄闇の中で種蒔きをしたプランターに水遣りをしました。庭には秋の虫がすだいていました。それが終わって、風呂場に直行してシャワーを浴びてさっぱりしました。

こんな暮らしをしています。みんなひとり遊びです。諸事よっちらよっちらしてカタツムリくらいのスピードしかありません。でもどれも急ぐ必要はありません。ゆっくりでいいのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする