<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

これは間違いを正す呪文 その2

2017年02月05日 12時04分41秒 | Weblog

) わたしはパーフェクト健康体です。宇宙がパーフェクトに健康であるように。宇宙の健康とわたしの健康とには寸分の違いもありません。

6) なぜならわたしと宇宙は一体であって、ともに永遠のいのちを生き続けているからです。そうであるのに、そうではないように錯覚をしているのは、わたしの目が暗いからです。目に無明が残っているからです。

7) 本当は安心をしていていいのです。それを言い聞かせています。セルフ・アファーメイションしています。これは間違いを正す呪文です。

8) でも病んでいる人がいます。でもでも、ほんとうはそうではないのです。わたしたちはパーフェクト健康体です。間違いを正す呪文を称えてみて下さい。ほんとうのわたし、宇宙と同じくらい健康なわたしがが見えて来るはずです。

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これは間違いを正す呪文 その1

2017年02月05日 11時43分32秒 | Weblog

1) 宇宙がパーフェクトに健康であるようにわたしもパーフェクト健康体です。宇宙とわたしが一体だから不思議はありません。

2) これはわたしの自己宣言、自己確信です。わたしに対する言い聞かせです。呪文のようなハタラキをしています。

3) ほんとうはそうなのです。それをそう見ていないときがあります。これはわたしの迷誤です。わたしは画像を逆さまに見る癖を持っています。

4) 病んでいると見ている時があります。そういうときは現象(げんしょう)の波に翻弄されているのです。でもほんとうは病んでなんかいません。

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仏陀と二人きりになっています

2017年02月05日 11時28分09秒 | Weblog

瞑想の中でわたしは仏陀と二人きりになっています。対座しています。口を動かしてはいませんが十分に以心伝心しているようです。仏陀のこころに触れたわたしの目に熱いものが溢れて来ています。この地上を生きて来たそのすべてが感覚的に感情的にすっかり償われ報われているという達成感成就感に満たされています。仏陀と対座しているわたしは、あろうことか、仏陀と同じくらいの大きさです。ちっとも引けをとっていません。対等です。対等の価値を有している証拠です。太陽と同じくらいの仏陀の明るさを前にしてわたしも太陽と同じくらいの明るさを保っています。照らし合って照らし合って肝胆相照らす仲になっています。しばらくずっとこうしています。千年万年になるかも知れません。ちっとも不遜ではないところがなんとも不思議です。仏智見の世界ではものの遜色と言うことがないのです。瞑想の中でと書きましたが、瞑想を離れてもこの構図は不変かもしれません。

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高濃度高圧力高温度になって生きていられる仕組み

2017年02月05日 11時16分25秒 | Weblog

命には限りがある。区切りが来る。だからこその命なのだろう。区切りの枠内だからこそ生き生きと生きていたいと思う。限定圧縮されて、より高濃度高圧力高温度になって生きていられることになる。

区切りがあるというこのカラクリ、いのちの工夫のこの仕組みに感謝をしようではなかいか。さぶろうのいのちに限りがあることに感謝をしようではないか。

庭に侘び助が咲いているのが見える。薄桃色だ。なんの変わりもない冬の日。(春分を過ぎたから春の日とすべきか?)わたしを嬉しがらせようとして咲いた花だから、その意趣を汲み取ってうっとりうっとり眺めている。

 

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その内側にいられることに感謝

2017年02月05日 11時06分14秒 | Weblog

朝食はチーズパンだった。トースターであたためてもらったら、チーズがとろけだしていた。これにジャガ芋と若芽の味噌汁。丼一杯。残り物の薩摩芋の天麩羅数切れ。パンは半分しか食べられなかった。デザートはヨーグルトと蜜柑だった。

食べられることに感謝した。いまに食べられなくなる。これは確実だ。体が病んで衰弱してやがて死を迎える。そうするともう朝食はしなくてよくなる。あたためられてやわらかくなったチーズパンも食べられない。いまの内だ。食べられる内だ。その内側にいることを感謝した。

だよねえ、だよねえ。どんなにおいしいものでも、おいしく見えるものでも食べられなくなるんだよね。チーズパンがキリストのパンのように価値を持った。それで腹がガラリアの海のように満ちて来て、半分しか食べられなかった。

 

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いいことをしたのか悪いことをしたのか

2017年02月05日 10時55分55秒 | Weblog

昨日は昼先から小葱の株周りの雑草を抜く作業をした。施肥をしていたところは雑草にとっても繁茂する絶好の場所だったのだ。これを丹念に抜き去ってあげた。小葱から感謝の言葉を受けたが、雑草からは恨みのそれを浴びた。ううううん。いいことをしたのか。悪いことをしたのか。抜き去った雑草はもっこで何杯も草の山へ運んだ。時が経つと腐敗して熱を持つ。冬の朝なのに湯気が出る。こうして雑草は有機肥料に還る。またこれを根株に戻す。これで彼らには新価値が生まれたことになる。しめしめだ。

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さぞかしさぞかし

2017年02月05日 10時49分10秒 | Weblog

チューリップの球根がいまかいまかと待っているだろうなあ。大地に根を下ろせる時を待っているだろうなあ、首を長くして。そうであるのに、さぶろうはまだ炬燵のお守り。怠け者。外は小雨。小雨を厭わずに外に出て行けるか。ううううん。渋る。チューリップが懇願している声を聞いてもなかなか行動しない。球根たちは大地に身を沈めてそこで春の先駆けの雨を受けていたいだろうなあ。さぞかしさぞかし。

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今日を生きていられるだけで儲けもの おしまい

2017年02月05日 08時50分21秒 | Weblog

さぶろうが「今日を元気で生きていられること」に感心している。それはとりもなおさず、それをそう思わせている状況があるからだ。さぶろうは体に痛いところが数カ所ある。なんだか追い詰められたようにも思う。医者に診せたら即手術即入院騒ぎになるのかも知れない。そうしたらもう「無為な日常」「無畏の日常」が飛び去ってしまうかも知れない。それが不安でもあるのだ。でもその不安があってこその新しい発見というのもあるのだ。一日は一生に匹敵する。その一日を生きていられるのは有り難いことなのだ。不安をかこちながらでも、それでも有り難いことなのだ。

 

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今日を生きていられるだけで儲けもの その5

2017年02月05日 08時48分14秒 | Weblog

今日の日曜日は雨になった。外に出て農作業は出来ない。いよいよ炬燵のお守りをするだけになる。それでいい。好きなクラシック音楽を日長うっとりうっとり聞いていられる。うっとりし過ぎてことりことり居眠りをする。これで快感ホルモンの海の中に漂っている小舟になる。

年を取った。年を取ると今日という日が俄然有り難い賜り物に見えて来る。一日一日が貰い物、儲け物、得がたいことに思えて来る。それはとりもなおさず、それだけ残りの日々が少なくなっているからに違いない。今日誕生した一日が貴重品なのだ。元気にしていられる状態、それが何より貴重品級なのだ。

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今日を生きているだけで儲けもの その4

2017年02月05日 08時37分00秒 | Weblog

いやいや、今日を元気で生きているだけで儲けものなのだ。金品の儲けがなくとも儲けものなのだ。有り難いのだ。何の巡り合わせなのか知らないが、ともかくも元気で生かされている。わたしが元気で生きていける条件をすべて整えてもらったので、今日を元気に生きている。そうだろうから。

(それにしてもその条件を整えてくれた存在とは、どんな存在なのだろう? 何故なのだろう? そうすることでその存在は無条件に喜んでいるのだろうか? わたしが元気で生きていることを、手放しで喜んでいてくれるのだろうか?)

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