モグラは土の竜と書きます。何処か竜と共通するところがあるのでしょうか。猫が時々捕まえて来て自慢をしていますが、姿形は、お寺の本堂の天井画の竜とはあまり似ていません。その土竜さんが2月になって活動が活発になっています。トンネル掘削工事をしているからすぐに分かります。土がそこだけ浮き上がって、割れ目が土の血管のようにジグザグつながっています。この時期になるとこの辺りでは土竜打ちなる行事が催されます。子供たちの行事です。でもわたしはそれをしません。土竜は愛嬌たっぷりだからです。とても打つ気にはなれません。分かりました。足の爪が似ています。トンネル掘削工事をするのにはこの鋭い爪が必要になります。土竜は暗い土の中にいますから、目が退化しています。空を飛ぶ竜はとびきり大きな目を開けていますけど。
さてもうやすみます。今日はよく働きました。日がすっかり暮れるまで外に出ていました。日没となると、さすがに空気が冷えてきました。家に入ったときにはぶるぶるでした。花壇の草取りをしていました。もう少しもう少しという具合になってしまいました。最後は畑の白菜の間引きをしました。遅蒔きでしたので、まだ小さいのです。でも籠いっぱいになりました。土が付いた根株は切り落とし、台所に駆け込んできてから、これを丁寧に丁寧に水洗いしました。どっさりになりました。ビニール袋に詰めて冷蔵庫に保存しました。一部は明日の朝の味噌汁の菜になります。種を蒔いて育てたものだから、愛着があって、十分に成長しないものでも捨てられません。働いたといっても、お金になったわけではありません。あくまで自己満足です。
今日は何をしようか。テッポウユリの球根も買ってきているので、これを花壇に植え付けることにしよう。売れ残っていたのだろう、3袋で1000円だった。もう発芽が進んでいるはず。これから植え付けてもまだ間に合うのだろうか。チューリップの球根も植え残している。手をつけていない赤ジャガ芋もどっさりある。これは急がなくてもいいらしい。とまれ、今日は日射しがあるから、あれこれ農作業をするには格好である。
やがて今日も日が暮れていくであろう。一日のページを捲ることになるだろう。一日が一生である。一生は二生にはならない。二生を待たずに、一生で完結している。完結するまでには何をしてもいい。散歩に充ててもいい、ジャガ芋植えに充ててもいい。寝っ転がっていてもいい。死を恐れていてもいい。おんなの人を思っていてもいい。何をしても完結を見るようになっているはずだから。
トランプ一家とは比較にはならないが村里にはこうした荒れた家が数軒ある。庭の梅の木が白梅紅梅を着けて咲いていた。主なしでも春を忘れてはいないようだった。
荒れ果てた家の隣には、新築の家が建っている。こどもたちの洗濯物が干してある。にぎやな声も聞こえて来ている。西洋風の家だ。ピアノの音が似合っている。庭の片隅には木瓜の花が笑っている。こうして栄華は循環を繰り返していく。栄華の頂点はいつもふっくらしてほのぼのとしている。
この世は栄枯盛衰である。例外はないようだ。栄華の跡はとりわけ寂漠としている。栄えて大威張りしていた人の家もやがていつのまにか衰える。人が寄りつかなくなる。
(鼻息が荒いトランプさんの、トランプタワーだって広大なゴルフ場だって休暇を過ごす豪邸だって、もしかしたらもしかだ。ずっとずっとというわけにもいかないだろう)
昨日は午前中に、行き帰り1時間半も歩いた。わたしの父の、そのお母さん、つまりわたしからすればお婆ちゃんの生まれ育った家を、何十年かぶりで訪ねてみた。お墓も尋ねてみた。家はもう誰も住んではいないらしくてすっかり荒れていた。幼い頃にお婆ちゃんに手を引かれて何度か行ったことがあった。それを思い出した。豪邸だったのに、子孫が途絶えていた。
裏の竹藪すらも荒れ果てていた。家の周囲の庭や田畑も荒れ放題になっている。手入れが行き届かなくなると見るも無残だ。お金持ちは所有している不動産も多いが、管理しないとこうなる。何事も管理するには手が要る。高齢者の手には負えないだろう。村里の散歩をしているとそんなことが痛感される。
昨日はチューリップをプランターや花壇に植え込んだ。まだ残っているのでそれは今日の内にやることにする。デストリヤーという赤ジャガ芋も買ってきた分は、2分の一に切って、簡略法を用いて、ふかふかにした畑に穴を掘って落とした。それからまた小葱の株まわりの雑草を抜いた。これで日暮れになった。一日の一生がこれで終わった。
いい天気になってきた。寒さで悴んでいた手の指がほぐれてきた。もう手袋は要らない。うっすらした青空が広がっている。風はあるようだ。物干し台の洗濯物がゆっくり左右に風車している。アスパラガスの地上部はすっかり枯れてしまって藁屑のようになって風に戦いでいる。ざっくり切り落としてやらねばなるまい。