もうこれ以上先へ走っていかなくともいい。ここからだって十分美しく夕日が見えている。走って走って走って、高い位置に登り詰めてでないと夕日は美しく眺められないとしていたのだが、もうこれ以上は走れなくなったので、此処に立ち止まって、ともかく夕日を眺めてみたのである。すると此処でだって文句なく美しく見えたのである。夕日は現在の低い位置にいるわたしにも大きな感動を与えたのである。もっと先へ行けば、もっと高い位置に登り詰めていけば、もっともっと美しい景観を得られるはずだろうが、先延ばしを止めにして、ここでその感動を味わうことを先決したのだ。そしてそれが正解だったという驚きに真っ先に震えたのである。
7)
多くの人の手助けがあって、<これまでの人生を十分楽しく生きた><わたしの為しうる限りの最高地点にまで到達した>という風に肯定的に見ることを妥当にしたのだろう。
8)
これまでに頂戴した多くの人の善意、仏陀の慈悲を無にしたくないという思いが募ってきたためなのかも知れない。
9)
遠いところにのみ有るはずの幸福、山の彼方にあるはずの理想。それはその通りであっていい。あくまでもそれを求めて行くべきだったのである。
10)
それが求道であるべきであるが、手に触れることが出来ない幸福や理想をもっと身近に感じたくなったからかもしれない。手に触れてから死んで行きたいと思ったからかもしれない。
11)
我が足元に薺(なずな)が咲いている、それを美しく見てもいいはずである。
12)
いままではちっとも目にもとまらなかった薺がいまは我が足元で美しく咲いている。これが感動になって揺さぶってくる。それは何故か。死を間近に控えているという実感がそれをそうさせているのかもしれない。
1)
「今日を最高とする」「わたしはわたしの今日を最高に生きることが出来た」という考え方は老人には向いているだろうが、若い人には向いていない。
2)
若い人は不満足がエンジンとなる。発進の原動力となるだろう。
3)
老いて行って先がなくなって来て初めてそこに導入されてくるのが、この一日一日をよしとしていく満足論であろう。
4)
あくまでも<未来にこそ最高を求めて行き続ける>という理想論をかなぐり捨てて、<わたしは今日の最高を生きた>といって慰撫しているだけかもしれない。言い換えれば、未来に最高を求めていくことを諦めたのである。
5)
すぐそこに死が待ち受けているという段階に入ってきて、無限の可能性が否定されてきたのである。今日ただいまを意義づける必要性に迫られたのである。
6)
或いは、未完成で人生を終わるという不安に耐えきれなかったせいかもしれない。
7)
で、わたしの下した結論だが、それはこんなものだった。
「では、日々体験していることの一つ一つを最高としてしまえばいい」これだった。これは簡単でしかも楽ちんなのである。無駄な努力をしなくてもいいことになるのである。向上心の欠如と揶揄されるだろうが、怠け者を通していていいいことになるのである。
お金持ちになってからではなくて貧乏人の今のままでそれはすぐさま手に入るものだからである。偉大な功績を残せなくても、人に尊敬をされないでも、褒められないでも、それはそのままで実現可能なことだからである。
8)
(論理の運びが無茶苦茶かもしれない)
いやいや、なんだかこれを考えていたら胸がすっきりしたのである。努力放棄だってすんなり肯定されてしまうのであれば、さぶろうのような怠け者にはぴったりである。でもこういう怠け者は絶対に一流にはなれない。径の奥義を窮めることも出来ないだろう。
6)
「こんなものはくだらない」「こんなことしたって何処がいいんだ」「それはつまらない」「それは最低だ」と判断する人もいる。いていい。しかしまたある人の場合は「これをわたしの最高とする」としてしまえばそれが最高になり、それで満足が得られ、十分な幸福を感じられる。これには客観的な基準はない。満足感、幸福感のレベルは人それぞれである。そこがとても面白く感じられた。
4)
たとえばこの温泉に入ってくつろぐということを最高だとしていれば、それが立派に最高であって、同じものでも最低だとしていればそれがその人には最低になる。それを最高にしている人が、もしかしたら最高の幸福術を手にしていると言えるのかも知れないし、それはただの欺瞞なのかもしれない。しかし、そんなものは最低だと極めつけている人は、或いは向上心のようなものが際だって高いのかもしれないし、或いは高慢だけかも知れない。
5)
世界の大富豪たちは、とてもこんな温泉遊びには目もくれないだろう。こんな鄙びたところになんかは第一足が向かないはずである。豪華な大統領専用機に乗り込んでゴルフをしなければ最高は味わえないと判断している向きもある。そしてその判断もまた妥当なのである。
3)
何を最高とするか、最高には段階があるのかなどということを他愛もなく考えた。最高だという判断は各人異なる。主観的である。だからその人が何を最高としたっていいことになる。だったら、最高の基準をうんと下げておけばいいことになる。「温泉に遊ぶくらいが最高なものか」「最高というのはそんなもんじゃない」「そんなレベルは最低に近い」などと他人が横槍を入れたって、感じている人がそうだとしている以上、その介入は当たらないことになる。そこを面白く思った。
1)
今日は午後から温泉に遊んだ。浴室の湯船が2つある。湯の温度が違っている。29度と39度としてあるが、それよりは2~3度高めに感じられる。熱い方は長くは入っておられないが、ぬるい方は長く入っておられる。初めにぬるい方で体を慣らす。かれこれ小半時、両手両足を伸ばしゆっくりする。肩口まで沈んでいないと寒い。体を浮かせたり沈めたりして過ごす。ゆったりできる。いい気持ちである。目を閉じていると眠気が襲って来る。寒くなったら熱い方の湯船に移動をして温まる。すぐに熱くなる。皮膚がすぐさま赤くなる。またぬるい方に戻る。相客方も概ねそうなさっている風である。熱い湯舟は狭い。ぬるい方は広い。
2)
人々は湯を楽しんでいる。こうしていれば、抱え込んでいるストレスがあったって自然、抜け落ちてしまうかも知れない。「ああ、湯はいい。湯に遊ぶのが最高だ」ついついそう口に出た。そしてその「最高」ということについてしばらく考えた。
お昼は冷凍食品の豚饅を一箇あたためて食べた。ほかほか。それに小さめの焼き芋一箇。ほくほく。安納芋で甘かった。お茶をぐいぐい飲んで、これでおしまい。ひとりの昼食は簡単だ。役に立つどんな活動もしていないからこれで十分だろう。
おい、さぶろう。ちったあ、人様のお役に立つことをしたらどうだ。そうだよなあ。そうすべきことは承知しているが、もはやその意欲が起こらない。衰えて皺皺になって、海の向こう山の向こう空の向こうに沈んで行く大陽の如く沈んで消えて行くばかりよ。
ああ、そういえば向こうの世界に行った弟は今時どうしているのかなあ。それだけの余裕が出来て、せっせせっせ人様のお役に立つ利他行に精を出しているのかも知れない。(それってしかし義務じゃなくて、お仕着せじゃなくて、自由意思だよね、きっと。)やりたいことをしてにこにこしている弟をイメージしてみる。
ふむふむ。空が怪しい。日がすっかり翳ってしまった。薄暗いぞ。また雨になるのかなあ。気温は高い。これじゃ、サイクリングには行けないぞ。では、怠け者をしていよう。
そうだ、古湯温泉の隠れ家に行って来るとするか。ここなら雨が降ってもどうってことはない。入浴料は350円。一日ここにいられる。広い休憩室で寝そべったり本を読んだりも出来る。ここまで車で往復なら約2時間。夕方には戻って来よう。ガソリン代が入浴料よりも高く付くのかも知れない。愛車に乗ってのドライブは好きだ。僕を大歓迎をしてくれるところはない。相手をしてくれる人もいない。仕方があるまい。それだけの魅力しかないのだから。湯を浴びる猿のように無言で、ひっそり湯に浸かっているか。老醜ふんぷんの老爺になるというのはわびしいことだなあ。湯船の中には赤い顔をした老爺がいっぱいいっぱいいるが、己をわきまえてみな無言だ。