「兄さん、そっちは仮の世で、こっちがほんものだったよ」「こっちへ来てみてそれが分かったよ」などとメールを寄こしてこないかなあ。死んでしまったら、たしかにこちらではもう弟の元気な姿は見られなくなった。それを悲しいと思っている。逝かれてみればさみしい。ひょいひょい淋しい。ひょいひょい風が吹いてくるように、淋しさが風になって吹いてくる。僕は、ここがほんものと思っているので、本物の世界を去った弟を悲しがっているけど、行った先で弟が、「兄さん、そっちが仮の世で、こっちがほんものだったよ」「僕は此処へ来てよかったよ」「此処は真如界。いいところだよ」などと報告をしてくれたらどんなにこころ安らぐだろう。死後の世界とはそうあってしかるべきだ、仏陀の世界だから、そこに辿り着けた弟は喜色満面にして楽しく暮らしているはず、などと僕は漠然とそんなふうに当て推量をして、確信に近づいたようにして、己を慰めては居るのだが。そっちにも紅梅が咲いているのだろうか。クロッカスは黄色い色をしているのだろうか。もう山林の斜面の落ち葉の下から福寿草が顔を見せてるだろうか。