わたしは毘盧遮那如来。一日駅長のように一秒だけ毘盧遮那如来になってみる。
毘盧遮那如来は大日如来、宇宙全体を照らす。
イミテイションゴールドでもちょっと眩しすぎる嫌いがあるが、ここへきてしばらく休んでいる。
放てば手に満ちるものが豊かにある。
ここは休息休憩地点。座が広くて明るくてあたたかい。
わたしは毘盧遮那如来。一日駅長のように一秒だけ毘盧遮那如来になってみる。
毘盧遮那如来は大日如来、宇宙全体を照らす。
イミテイションゴールドでもちょっと眩しすぎる嫌いがあるが、ここへきてしばらく休んでいる。
放てば手に満ちるものが豊かにある。
ここは休息休憩地点。座が広くて明るくてあたたかい。
「わたしは神と同一である。わたしは仏陀と同体である。わたしが宇宙である」そういう観想法がある。
神はわたしを離れてはいない。わたしを含んでいる。仏陀はわたしを外すことはできない。ここに居るわたしあっての宇宙である。ものみなが平らであって等しいはずである。
ここにわたしが存在している。
「さぶろう、おまえはたったそれしきを以て足るのか。小さい小さい」この挑発にどれほど叱咤されてきたことか。蛙の腹を牛の腹にしようとしてきたことか。
わたしを離れていよう。わたしをしばらく忘れていよう。できれば手の平の外へ放っていよう。
わたしへの限りない執着を1m離れるとどうなるのか。
庭に紅梅が咲いている。是で済んでいる。これを美しく見てそれで済んでいる。その先がない。
それ以上があると思い込んできたのに、それ以上にせがまれて走り続けてきたのに、ここで終点だった。此処で完成地点だった。
手に鉛筆を握っていれば手はそれ以外を持てない。手から鉛筆を離してしまえば、手の平は空になるが、その空は宇宙を含んでいる。
「放てば手に満つ」なる禅語がある。手に握っているもの、それを放ってしまうと、そこに宇宙が満ちて来る。
わたしの手に握っているものをわたしとしてきたが、それはいかにも小さい物であった。
わたしの身心所有、わたしの身心所得の大きさと宇宙の無尽蔵の豊かさとはてんで比べものにはならなかった。
欲しがって求めてねだって止まなかったが、あくせくすることはなかったんだ。ふっとそこへ来る。
わたしの持ち物の多さ少なさ、価値の高さ低さ、明るさ暗さの耀き度で己の満足度を測っていたところがあったが、もうそれはいい加減止めにしよう。止めにしてもいいということが分かったから。仏陀の光に照らされたら、己の蝋燭の明度は自慢にもならない。軽蔑にも当たらない。
6)
ただの負け惜しみかも知れませんが、すっきりしたもんです。
7)
「平常心(びょうじょうしん)是道」という禅語があります。平常通りでよかったんですね。それを乗り越えて上り詰めて行かなくともここが、我が足元が己の山の山頂だったんですね。
8)
仏陀の力、ダンマの力、宇宙の力の中に存在する僕を瞑想していれば、むしろ僕の無力は燦然と光り輝きます。
9)
もう先へ先へ走っていかなくとも済みます。此処で大丈夫。
10)
ここから昇る朝日と沈む夕日が美しく見えています。
1)
僕はひとり炬燵のお守りをしています。だらしないたらありません。
2)
でもでも、いまの僕でいいと思っています。これで最高の幸福に行き着いていると思っています。
3)
僕はちっとも偉くなんかありません。偉業を成し遂げたわけでもありません。大金持ちなんかでもありません。人の尊敬を集めているわけでもありません。ただの無力な老爺です。おいぼれです。
4
でも此処へようこそ辿り着いたと思っています。この無力、この静かさ、この穏やかさ、この諦め、この捨て身、この落ち着きに辿り着いている自分が夢のようです。
5)
誰もが成りたがる有力人間でなんかならなくったっていい、ならずにすんでよかったという心境に達しています。これは諦観なのかもしれません。
今日は小さな音楽会に行きます、午後から。珈琲付きの1500円。一流ピアニストの生演奏が楽しめます。時間は90分。ピアニストの方からお誘いを頂戴しました。たぶん、たぶんではありますが、彼女は大好きなベートーヴェンの曲を弾いてくれそうな気がします。僕はとろとろといい気分になってしまって、いつのまにか寝てしまっているかも知れません。席は10席。いつのまにか終わっていたらどうしましょう。
あ、僕は音楽を聞くのは大好きですが、どんな知識も持っていません。音楽を聞くようないい耳もしていません。でもこれですっかり慰撫されます。ふわりふわりの春の蝶になって大空へ飛んでいけます。割とシンプルな構造なんです。