一人で嬉しがっていればそれでいいのである。人から見たらそんなことは嬉しがることではないと思われるようなことでも、当の本人がそれを嬉しがっていれば、それは確かに嬉しいことなのである。これでなければ嬉しがれない、嬉しがってはならないなどということはないのである。何をどれだけたくさん嬉しがるか、それは個々人の全くの自由裁量なのである。
昔、峨眉山山中に一人の隠者が住んでいた。この男は始終笑い転げている。貧しい暮らしだし、粗末な服しか着ていないし、贅沢ができそうな財産もなさそうだし、王族の生まれというわけでもないし、とてもとてもそんなに笑い転げるほどの幸福材料などはあるはずがない。そこでそれを不審に思った役人が遣いをよこして問い質させた。
何を喜んでいるのか、と。何がそんなに嬉しいのか、と。何が汝を笑い転げさせているのか、と。見れば着ている服もずたずに破けている。それを荒縄で縛り付けて帯としている。何処からどう見たって、幸福材料の量が人より抜きん出ているふうには見えない。ただ瞳がらんらんと輝いていて明るい。瞳が太陽のようだ。あたたかい。
男はやおら答えた。儂には笑っていいことが三つだけある。いやたくさんたくさんあるのだが、今のところはこの三つだけで足りている。笑い転げるにはそれで十分だ、と。一つ目は、儂は人間に生まれた。二つ目は、儂はここ峨眉山を我が住まいとしていられる。三つ目には、儂はこの通り今日を生きている。と。遣いは、「そんなことだったら、自分もその三つともみんな叶っている、だがそんなありふれたつまらないことでは笑う気にもなれない」と言い捨てて、がっかりして戻って行った。
事ほどさようなのだ。笑える者もいるし、笑えない者もいるのだ。人が隣からちょっかいを出すことでもないのだ。笑おうと思えば何だって笑えるのだ。春風が吹いてきただけでも笑えるし、そこに梅が香っているだけでも嬉しがれるのだ。