<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

笑えることはいっぱいある

2017年02月25日 23時08分45秒 | Weblog

一人で嬉しがっていればそれでいいのである。人から見たらそんなことは嬉しがることではないと思われるようなことでも、当の本人がそれを嬉しがっていれば、それは確かに嬉しいことなのである。これでなければ嬉しがれない、嬉しがってはならないなどということはないのである。何をどれだけたくさん嬉しがるか、それは個々人の全くの自由裁量なのである。

昔、峨眉山山中に一人の隠者が住んでいた。この男は始終笑い転げている。貧しい暮らしだし、粗末な服しか着ていないし、贅沢ができそうな財産もなさそうだし、王族の生まれというわけでもないし、とてもとてもそんなに笑い転げるほどの幸福材料などはあるはずがない。そこでそれを不審に思った役人が遣いをよこして問い質させた。

何を喜んでいるのか、と。何がそんなに嬉しいのか、と。何が汝を笑い転げさせているのか、と。見れば着ている服もずたずに破けている。それを荒縄で縛り付けて帯としている。何処からどう見たって、幸福材料の量が人より抜きん出ているふうには見えない。ただ瞳がらんらんと輝いていて明るい。瞳が太陽のようだ。あたたかい。

男はやおら答えた。儂には笑っていいことが三つだけある。いやたくさんたくさんあるのだが、今のところはこの三つだけで足りている。笑い転げるにはそれで十分だ、と。一つ目は、儂は人間に生まれた。二つ目は、儂はここ峨眉山を我が住まいとしていられる。三つ目には、儂はこの通り今日を生きている。と。遣いは、「そんなことだったら、自分もその三つともみんな叶っている、だがそんなありふれたつまらないことでは笑う気にもなれない」と言い捨てて、がっかりして戻って行った。

事ほどさようなのだ。笑える者もいるし、笑えない者もいるのだ。人が隣からちょっかいを出すことでもないのだ。笑おうと思えば何だって笑えるのだ。春風が吹いてきただけでも笑えるし、そこに梅が香っているだけでも嬉しがれるのだ。

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結果が原因を産み出すことだってあり得る

2017年02月25日 22時05分19秒 | Weblog

1)

起こったことが嬉しい感情をもたらすのであれば、その逆方向は成立しないか。成立するかも知れない。

2)

まず嬉しい感情を湧かす。するとそれを惹起するだけの出来事がそれに沿って流れ寄って来る。

3)

先立った嬉しい感情を孤立させないための配慮が周囲から立ち上って、不思議現象が出来(しゅったい)する。

4)

身の回りに起こる出来事が次々に嬉しいものになる。そういう方向性が確立される。そうすればさぞさぞ嬉しいだろう。

5)

目が輝いて来るだろう。目が輝いてくるのはいいことなのだから。

6)

嬉しい感情というのを燃料にすると、嬉しい出来事がエンジンを回転し始める。だったら、やってみようではないか。

7)

まず嬉しがる。

8)

普通の流れでは原因があって結果が後についてくるということになっているが、結果を先取りすれば原因が自ずからにしてその方向を向いて流れ出して来るのではないか。

9)

突飛な発想のようだが、結果が原因を産み出すことだったあるはずではないか。

10)

原因と結果は一貫しているのではないか。一本の棒の右端と左端なのではないか。

11)

水の流れはそれができる。素麺流しの竹の小川で実験してみよう。右端を高くしてやれば水流は右端から左端へ流れるが、左端を高くしてやれば、その逆流は起こり得る。

12)

どちらの端が原因にもなれるのである。

13)

今晩寝るときにいいこと、こうであったらいいだろうなということを思い描いて、にやりとしていると、明日にはそれが実現している。いいだろうなあ、そうあれば。

14)

事実がこうやって我が手に操作ができるのであれば、この操作が可能になれば、いかにもいかにも世の中は楽しい世の中に変貌していくはずである。

15)

いかにもいかにも楽しい世の中である方がいいのである。

16)

カタッ苦しくものの順序を一方通行にしていなくともいいのではないか。

17)

どちらからでも通行が出来ると道はスムーズに流れて行く。

18)

結果から原因へ。原因から結果へ。ほんとうのほんとうは、どっちだって可能なのかも知れない。両方向が可能なのかも知れない。

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あっちへ引っ越ししてもやはり

2017年02月25日 10時50分08秒 | Weblog

おはようございます。って、あっちへ引っ越してもやっぱり挨拶言葉は同じなんだろうか。そりゃそうだよ。同じだよ。ということは朝と昼と夜の区別があるってことだよね。じゃ、こんにちはもこんばんはもあるんだ、きっと。朝は太陽が昇ってくるから朝になるから、大陽も昇ってくるってことだよね。昇ってくる太陽があるのなら、じゃ、沈んで行く大陽もあるってこと。太陽が沈んだら夜になるはず。じゃ、夜が来たらみんな眠るんだろうね。だろうね。だったら、こっちとあんまり変わらないのかなあ。日本が朝になったらニューヨークでは夜。こっちが朝だったらあっちは夜なのかなあ。だったら、ニューヨークに引っ越しをするのと同じかもしれない。ふううん。ふううん。死んだ弟は、だったらいま、ニューヨーク在住ってことか。みたいなところにね。弟君、こんばんは。元気でやってるかい? 誰と一緒なのかな。親爺さんやおふくろさんといっしょに仲良く生活をしているのかな。だったら、楽しいよね。

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すべて無責任の身の置き場

2017年02月25日 06時44分40秒 | Weblog

眠くなって来たぞ。また寝よう。寝たいときが来れば寝て、起きたい時が来れば起きる。喰いたくなったら喰う。外に出て行きたくなったら出る。山を仰いでいたくなったらそうしている。石の上に座っていたくなったらそうしている。入り日をうっとり眺めていたくなったらそうしている。老境とはいい気なものだよ、まったく。よくぞよくぞここまで辿り着いたわい。男前であるなし、偉い偉くないの価値を問われない。すべて無責任の身の置き場。ここにいられる。だんだらだらだら。だらしなくしておられる。

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嬉しくない思い出も嬉しく塗り替える力

2017年02月25日 06時23分16秒 | Weblog

あれあれもう夜明け。六時半。そろそろ家族が起き出して来るぞ。今日のさぶろうは何をして遊ぶのかなあ。遊ぶしかないのだものなあ。しかしいつも独り遊び。おもちゃはこころの中の蔵にどっさり。なにしろ七十年の思い出がある。嬉しかった思い出の小箱が列んでいる。老爺だからこれで十分遊んでいられるところ、そこがまたいい。遊んでいると眠気に誘われる。うつらうつらする。嬉しくない思い出も嬉しく塗り替える力も付いた。このしたたかさ。長く生きていればそういう摩訶不思議な力も付着する。そうするといままで嬉しがらせずに鬱々していたいたものたちが、これで勢いを得て、これ幸いにわっとわっと喜び勇む。喜び勇む。駆け足する。今日のさぶろうは彼らと追いかけっこして遊ぼう。この仲間遊びをしてわいわいどやどやして遊ぼう。

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嬉しいことを想っていると

2017年02月25日 06時03分17秒 | Weblog

えへへ。おほほ。うふふ。嬉しいことを想っていると嬉しいことが湧き出て来る。これについつい引き込まれる。嬉しいことを見せてもらう。体験もさせてもらう。それでまたいよいよ嬉しくなる。嬉しさを呼び寄せる名人は、まず嬉しいことを想っている。しょっちゅう、あははいひひを呟いている。蟹さんの泡吹き泡のよう。いい気なもんだ、まったく。あ、またまた嬉しいことが近付いて来ている予感。予感的中。今度も開けてびっくり玉手箱だ。玉手箱の中からは金銀財宝ざっくざく。嬉しがらせるパワーを放つものはみな我が金銀財宝。山も空も草も木も。雲も光も風も風の影も。

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赤ちゃんを見せてもらった

2017年02月25日 05時40分18秒 | Weblog

お母さんが赤ん坊を前抱きにして抱いておられた。ふかふかのねんねこに包んでおられた。赤ん坊を見せてもらった。赤ん坊の顔が現れた。生まれ出てきて間もない赤ん坊で、顔中がそれが叶った嬉しさに溢れていた。可愛い可愛い赤ん坊だった。目がぱっちり開いてわたしの目とあった。どきどきどぎまぎした。赤ん坊に見られている人間であるということにどきどきどぎまぎした。わたしは生まれたての赤ん坊の目にどんなふうに映っていたことだろう。大切な赤ん坊を見せてもらったことに丁寧にお礼を述べた。可愛い可愛いを十回述べて。お母さんは嬉しそうだった。お母さんがまた元の通り赤ん坊をふかふかのねんねこに包まれた。これは昨日、近所のスーパーで、夕暮れ、わたしがもらった嬉しい体験だった。わたしは赤ちゃん大好き老爺。困ったもんだ。赤ちゃんとみると擦り寄って行く。人さらいのように強面の、しわしわの老爺なのに。

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念仏はわたしを喜ぶことであった

2017年02月25日 05時24分40秒 | Weblog

念仏というのはわたしを喜ぶことであった。ひたすらひたすら喜ぶことであった。仏さまに守られているわたしを見てつくづくに喜ぶことであった。仏さまの世界にいるわたしの姿をつぶさに見てしみじみ喜ぶことであった。仏になるように導かれて行くわたしの姿を見て感涙に噎ぶことであった。よろこばれているわたしをわたしがよろこんでいくのは極々当然のことであったのだ。よろこべばよろこぶほどに、よろこびが増して深くなって行く。とうとうわたしのこころが大きな大きな海になって行く。歓喜の海になって行く。そうして下さった仏さまを念じて念仏を称える。静かに安らいで念仏を称える。

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仏さまによろこばれているわたしの姿を見る嬉しさ

2017年02月25日 04時37分09秒 | Weblog

南無阿弥陀仏を称うれば十方無量の諸仏は百重千重囲繞して喜び守りたまふなり

これは親鸞聖人のお書きになった現世利益(げんぜりやく)和讃の最後を飾っている賛嘆偈である。

仏のみ名を呼んでいると分かって来ることがあるというのです。しみじみと分かって来ることがあるというのです。領下されてきて涙が溢れて来ることがあるというのです。では何が明らかにされて来るか。その一に、この世は仏さまの国であるということ。その二に、数限りない仏さまが十方、つまり東西南北、その間と間の四方向、上方下方の配置についておられるということ。その五に、遍くびっしり星の数ほどもおいでになっておられるということ。その六に、そしてその無量の仏さま方がどの仏さまもみなわたしの方向を向いておいでになるということ。その七に、あろうことか仏さま方がみなわたしを取り囲んでおられるということ。その八に、取り囲んでおられる円陣の輪が百重千重にも広がっているということ。その九に、何をなさっておられるかというと、みながただただわたしを守ってわたしを導いていてくださるということ。その十に、かたじけないことなのだが、そうすることをどの仏さまもみな喜んでいてぐださるということ。わたしを守りわたしを仏の国に導いて行くことを何よりも何よりも喜んでいてぐださるということ。わたしがそうやって仏にされていくことを喜んでいてぐださるということ。そうやって仏に近付いて歩いているわたしを見守ってそれを賛嘆し感涙に噎んでおられるということ。そういうことが次から次へ領下されて来る。そういうことは知らないことだったのであるから、わたしは目を大きく大きく開かされて来る。閉じて見えなくなっていた目が開眼されて来る。仏さまの世界がつぶさに見えて来る。仏さまの世界の中を生きて来たわたしの姿がはっきり見えて来てもう疑念がすっかり解消されて来る。その目から熱い熱い涙が溢れて湧いて来る。これがこの現世で得られているかたじけなさ、その利益を頂いていたことが嬉しくなって嬉しくなって、我が人生という大きな大きな海がすっかり満ちる。

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