<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ホテル到着は9時を過ぎそう

2017年10月08日 18時39分56秒 | Weblog

北海道北端を目指している。パック旅行の3泊4日。まだバスの中。残り2時間、日本海海沿いを走らねばならない。現在6時48分。ホテル到着は9時を過ぎそう。行程に無理があるようだ。バスはほぼ満席である。行き交う車もほとんど絶えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人がいる ぞろぞろぞろぞろ動いている空港内

2017年10月08日 10時46分19秒 | Weblog

人人人人。人がいるなあ。福岡空港に来た。行き交う人人々人人々。めったに見ないので、口をアングリ。田舎者。田舎には人はいないものなあ。しかも通常は引き籠もり。穴の中の狢しているから。とりわけ若い人が珍しい。子どもが珍しい。赤ん坊はなおさら珍しい。ぞろぞろぞろぞろ。動いている動いている。みな二本足している。荷物を抱えている。忙しそうな顔をしている。搭乗口7番ロビーで待つ。まだたっぷり時間がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空を飛ぶのは性に合わない

2017年10月08日 07時06分16秒 | Weblog

さ。起きよう。起きて朝ご飯にしよう。9時半には家を出る。空港へ向かう。飛行機は苦手だ。空を飛ぶのは性に合わない。北海道までひとっ飛び2時間。ゆらりゆらりするだろうな、さぞかし。我慢ができるかどうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空を飛びたいか 空を飛ばせてあげよう

2017年10月08日 06時41分50秒 | Weblog

現身に飛行(ひぎょう)自在、神通(じんづう)変化(へんげ)を獲得して、我が如くにして異なることなからしめん。    仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経より

この身このままで空を自由に飛び回るというのは神通力の然らしめる動きである。変化は「へんげしん」となること。すなわち肉体の形に束縛されなくなること。つまりメンタルの体を与えられること。これで己の形に拘らないでいられる。「我が如くにして」というのは観世音菩薩と同じようにということである。わたしをこのままで観世音菩薩にまで引き上げてくださるということである。観世音菩薩のみ名を唱えたらそれを即得させてあげるというお約束である。十一面観世音菩薩の陀羅尼は、オンマカキャロニキャソヴーファである。ダラニは仏の世界の言語である。中身は「あなたを助けます」ということである。「わたしが助けられてここにある」という事実を知らない者のためには、空を飛ぶ体験をさせてもらえることになっているが、陀羅尼の奥深さを知ればもう十分である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近在の老爺が一輪車を押して

2017年10月08日 06時28分56秒 | Weblog

昨夕、近在の老爺が一輪車を押して我が家においでになった。そろそろ100才になんなんとする方である。お元気だ。耳は遠いようだが。畑に出て秋野菜の間引きをしてこられたらしい。一輪車には20cmほどの若菜が載せられていた。お裾分けを忝くした。早速、洗って揃えて、根を切り落として、高温でさっと茹でた。刻んで胡麻和えして夕餉に頂いた。サクサクの歯触りだった。青々とした若菜の命の、伸び盛りの鮮やかな、柔らかい健康を受け継いだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深くなる秋 深くなる魂(こん)

2017年10月08日 06時10分58秒 | Weblog

ベルレーヌの憂愁われを野に誘い 深くなる秋 深くなる魂(こん)   薬王 萌

ポール・マリー・ベルレーヌはフランスの詩人。年下の詩人ランボーと暮らし、発砲し、一発がランボーの手の平を撃ち抜き、牢獄に送られた。酒と頽廃と錯乱の日々を送って51才で病没した。言葉に潜む音韻を弾き出すことに優れ、詩がそのまま音楽の調べを含んでいた。詩はすべからく陶酔である。ことばを飲んで得られる陶酔である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指は触れ回る 快感を得ようとして

2017年10月08日 05時38分08秒 | Weblog

おはようございます。もう手の届くところに朝が来ています。触ればひんやりする秋の夜明けが。

この手はなんにでも触れます。触ると反応が起こります。第一次反応を起こすのは、指の指紋の場所。それが波になって全身に行き当たります。不感症を決め込んでみても、感じます。こころが揺さぶられます。感情が高まります。高波のように。そしてとどのつまり一篇の詩が生まれ出ます。ですから、指が書いたようなものです。快感を得ようとして指は触れ回ります。空に触れ、地に触れ、風に触れて、そこに感覚を探り当てて安堵します。ですから、この指がなければわたしはことばが紡げません。一言の挨拶言葉すらも。指はアンテナです。指のアンテナを立てます。ここから、すべての外的世界を傍受します。

触れなくば芽生えるこころなかりしを触れてかなしくなる夕べかも    薬王 萌

「かなし」は、「悲し」とも「哀し」とも「愛し」とも書く。切なくもの悲しくなる秋の日。女の人のやさしさに触れればこころの波は一夜で嵐ともなる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする