<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

陀羅尼についての私見

2017年10月31日 11時20分47秒 | Weblog

よくは分からないことを書いて行く。推量によって書いて行く。

法華経最終章を締め括る一つが陀羅尼(だらに)品(ぼん)である。陀羅尼は梵語ではダーラニー。その漢訳である。真言ともマントラとも神咒とも呼ばれる。法華経を弘める活動をしている行者を守護する呪文である。行者自らがこの呪文を唱えて、ともすればめげそうになる己を叱咤激励して、元気を奮い立たせていたであろうと思われる。(よくは分からない)

法華経を説かれる仏陀の前に、薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天王、持国天、鬼子母神・十羅刹女、普賢菩薩が順番に進み出て「わたしたちが法華経を信奉する行者を守護します」と宣誓して、それぞれその守護のための呪文を述べる。短いのもあれば長いのもある。長短のどちらも「かくかくの理由で法華経とその行者を守護をします」という内容になっている。意味は隠れているので、表に現れてくる音声はまったく理解不可能である。理解不可能だからこそ凄まじいばかりのパワーを放っているようにも聞こえて来る。

陀羅尼は行者以外の人にはともかく不可解語である。しかし、理解可能だからすべてよしとはならない。

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これで威張っていろと影が言う

2017年10月31日 10時06分46秒 | Weblog

生きているおとといきのうそして今日 これで威張っていろと影がいふ     薬王華蔵

何を威張っていてもいい。いい。威張ってなくてもいいが、威張っていてもいい。もちろん人様に威張ることではない。己の足元にいる影がわたしにそう言うだけである。

一昨日を生きた。昨日も生きた。今日も生きている。威張れることでもなさそうだが、威張れることでもありそうである。

日向ぼっこをしている。足元に影がついて離れない。そうだったそうだった。死んでしまえばその影さえも足元になかった。

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ベランダに出て日向ぼっこ

2017年10月31日 09時51分24秒 | Weblog

ベランダに出て椅子に座って日向ぼっこをしてた。ぽかぽかした。いい気持ちになった。簡単だった。日の中にいるだけでよかったのだから。空に雲一つない。すっかりもっかり秋の好天である。

こんな日には山登りをしたらいいだろうなあ。秋のキリンソウが咲いているだろうな。水辺にはツリフネ草が航海に出ているだろうなあ。山頂に着く。眺望が一挙に広がる。微風が吹き上げてくる。草に座ってお弁当を広げる。やや温まり気味の缶ビールを煽る。うまい。寝転がる。お昼寝をする。そうできたらいいだろうなあ。

足が悪くないときにはよく一人で八天山に登った。ここは修行者の山である。頂上付近の大岩の上で、ゆったり座禅を組んだものだ。

今は老いた。すっかり老いた。老いてもゆっくりなら登っていけるはず。元気な老人も多い。だが、いまの自分は、杖を突き突き、麻痺の足を引きずりながら、登っていく元気は失せている。まあ、せいぜいが風の来ない日溜まりで日向ぼっこだ。ちょっと情けない。

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昨日午後に隼人瓜を収穫した

2017年10月31日 07時37分06秒 | Weblog

隼人瓜を数個収穫した。握り拳よりも大きく成長していた。今年は棚を作ってあげなかった。それで畑一面に這い回っている。凄まじい勢力である。深々した藪を作っている。茎も葉も濃い緑。実は薄緑。葉っぱを浮かせてみたらそこに実が垂れていた。いままで気づかなかった。実はすぐに太る。さっそく夕餉に酢物を作ってもらって食べた。シャキシャキしていた。今朝は朝食の味噌汁の具になっているはずである。万石笽(まんごくそうけ)何杯も収獲できる。肥料が要らない。殺虫剤が要らない。味噌漬けにしても酒粕漬けにしてもおいしい。棚を作ってあげたら小屋全体の屋根を埋め尽くす。高い山茶花の巨木に登らせればあっというまに山茶花を埋め尽くす。とにかく生命力が旺盛な植物だ。切るとねばねばした乳を出す。隼人瓜というから鹿児島が原産地だろうか。栄養価が高いかどうかは知らない。

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秋の京都を訪ねることにした

2017年10月31日 07時25分12秒 | Weblog

まもなく11月に入る。2日から京都へ行く。次女のところを訪ねる。3日間泊まる。宿泊代が浮く。その後、和歌山へ足を延ばす。小さなトランクを引いていく。間引いた大根の若葉を土産にして行こう。予報では天気に恵まれそうである。秋の京都は紅葉が美しいだろう。観光客も多いだろう。明恵上人の高山寺を尋ねてみたいが、どうも山深いところらしい。遠く歩くのは無理かも知れない。

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今日は弟の命日 思い出が去来する

2017年10月31日 07時12分00秒 | Weblog

いやあ、冷え込んでいる。寒い。霜が下りたのではないかと疑うほどだ。布団の中が寒くて夜明け方に何度も目が覚めた。うん、これだけ気温が下がれば、畑の野菜の虫害が減るだろう。

今日は10月の最後の日。弟の命日である。弟は阿弥陀さまのお浄土に往生して成仏を果たしたのだから、追善供養は不要である。だがしきりにあれこれ思い出が去来する。4歳年下である。終生いっしょに行動することが多かった。この季節になると大根葉の間引き菜を貰いによくやって来た。「いよ~っ、おっこう」と片手を上げて玄関へ歩いて来た。「おっこう」は「おりますか」の意味である。

 

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