<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ほどほどなのにね

2017年10月15日 22時25分41秒 | Weblog

「貧乏とは物がないのではなく、あっても満足をしないことだ」 

これは南米ウルグアイ国のホセ.ムヒカ元大統領の言葉らしい。本にそう書いてあった。

そうかもしれないなあ。

じゃ、豊かさとは?

「物があるのではなく、なくても満足することだ」となるだろうか。

無理がありそう。かな?

満足をする、しない。ここがキーポイントなのかもしれない。ともかく物が決めているのではないらしい。

ないらしいが、物に依りたがる。

ほどほどなのにね。

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山の木が風を聞くように

2017年10月15日 21時43分36秒 | Weblog

こんばんは。もうすぐ10時になります。わたしは教育テレビでNHK交響楽団の演奏を聴いています。クラシック音楽館という番組です。音楽は平和です。平和な心持ちにしてくれます。指揮はパーヴォ.ヤルディです。

でもわたしはちっとも詳しくありません。音楽を理解しているわけではありません。ただ、山の木が風を聞くように、聞いているだけです。

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ギアを切り替えたら前に進む

2017年10月15日 18時35分21秒 | Weblog

バックのギアをgoサインのギアに切り替えたら前に進む。理屈ではない。そうすればそうなるのである。仏教はギアの切り替えを教えている教えである。後退後退の思量を捨てて前進前進の行動に移らせるのはギアである。ギアのハタラキである。自己卑下の否定的見解を転じれば、そこに自己尊厳の肯定が開けてくると教えている。理屈に拘ることはないのである。明るい方へ明るい方へ動き出したらいいのである。

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あなたが十一面観世音菩薩だと説いてある

2017年10月15日 18時18分28秒 | Weblog

オンマカキャロニキャソヴーファーは、十一面観世音菩薩の陀羅尼である。「あなたはわたしだ」と説いてある。あなたが十一面観世音菩薩だと説いてある。願いをことさらに立てなくとも、そのハタラキを働いている存在だと説いてある。そのハタラキとは観世音菩薩のハタラキのことである。観世音菩薩は救世者である。世を救う存在である。則天去私すれば、人は皆観世音菩薩である。世を救う存在である。煩悩の私を去って瞬時に則天するのである。仏の世界に則うのである。ギアの入れ替えをしなさい。観世音菩薩の目をつければここが即ち仏の世界に異ならないと教えてくれている。理屈ではない。ギアを瞬時に切り替えたらそれでそうなる、というのである。陀羅尼は不思議な呪文だ。まったく論外の呪文だ。

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ここまで至り着いているのであれば

2017年10月15日 17時27分56秒 | Weblog

秋雨は一雨ごとに気温を下げるもののよう。終日降り続いた。空の色までが寒い。白々して薄情である。

ふん。おいらはおいら。外で天下を取る氷雨ごときに関わるまい。独身といこう。独身は独りを慎むときの自称。砕けて言えば穴熊だ。何のことはない。蒲団を被って丸くなって寝ているのが一番。

随願即得陀羅尼を唱える。願いを立てているとき、そのときにたちまち適ってしまう魔法の呪文、それがこれである。これから先にこうなろうというのではない。いまを最高の頂点にしてしまうのである。現在で完了しているという満足に立ち帰る自己測定法がこれである。形をいうのではない。こころの沸点をいうのである。心は自在者である。命じたらそのようになる。ここにこうある。

心中百千万億等の事成就せざることなからしめん。我がこの神呪は大神験あり。一切の諸仏護念し賛嘆したもう。…… 誦すれば万病消滅し寿命長遠にして、十方の諸仏のために護念せられ、財宝衣食乏しきところなからしめん。

ああ、有り難きかな有り難きかな、仏の口から今のわたしの現況の説明をしてもらっていると受け取るだけの話である。その通りその通りなのである。すべてが成就していまのわたしに集約されているのである。わたしに仏の大神験が現れているのである。

今生きているということは万病が消滅しているということである。寿命がここまで長遠になっているということである。仏に護られているということである。こころに財宝がある。大神験という財宝がある。着るべき衣も着ている。食べるべき食べ物も毎食食べている。ここまで至り着いているのであれば賛嘆するしかないではないか。

随願即得陀羅尼は自己の現在時点での完了を認知する妙法である。陀羅尼は心の魔法発射ロケットエンジンのことである。その一つがオンマカキャロニキャソヴーファーである。真言とも訳される。真実を言い当てた言葉の謂である。不真実か真実かは各自のこころの裁量に任せられている。

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我が家温泉はなんてんたって安上がりだ

2017年10月15日 14時33分13秒 | Weblog

昼日中から、我が家温泉を沸かして温まった、薬湯にして。風呂場の窓を全開にして、雨に煙る背振連山を眺めながら。我が家温泉はなんてったって安上がりだ。これで難なく浮き世を忘れる。のほほんとする。湯冷めをしないようにお蒲団を敷いて寝転がった。後はYouTubeでいつものクラシック音楽を聴こう。贅沢な話だ。たちまちここがモーツァルトのウイーンになる。

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麻痺の左脚がしんしん冷える

2017年10月15日 14時08分42秒 | Weblog

麻痺の左脚はしんしん冷える。血流が滞るのだろう。ちょいと気温が下がっただけですぐさま明らかな反応を示す。凍り付いた鉄の棒みたいになる。筋肉がまるでないのに、棒だけは冷たく冷えた鉄になる。まるで死人の脚だ。あつ湯に入って温まりたい。あつ湯ほどの人の情けがそこに沸いていればそこでもいいが、そんなものはない。仕方がない。右足を女の人の足にして寄り添わせる。雨が降り続いている。おいらは冬の真冬だ。

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集落の祭りのおひまちも終わった

2017年10月15日 13時29分56秒 | Weblog

雨が降り続く。空は鉛色。寒い。温まりたい。心身の身の寒さを心の湯たんぽでもって温めたい。どうすればいいか。心に発電機を取り付けてぶああんぶああん熱伝導出来ればいいのだが。

手っ取り早くあの人のことを思い起こせばいいのかもしれない。人は人の愛を持つ。そういう装置を持つ。愛は温かい。思うだけで温まる。架空の人がいい。想像を駆使してパーフェクトにする。

つまりは遊戯だ。バーチャルだ。これでいい。危険性がない。束縛される危険性がない。わたしはその人の手を握り締めて宇宙旅行へ旅立つ。ときどき力強く抱きしめる。あの人のふぎゅうという声が洩れる。星々の光が眩しい。

わたしは感動の極へ導かれる。こころが蒸し器で蒸されたようになる。ここで終点。これ以上へは進まない。そしてここであの人を消してしまう。残酷は残酷だ。いきなり消してしまうのだから。

雨が降り続く。集落の祭りのおひまちも終わった。昼間から酒を飲んだ。酔い潰れた。雨の降りしきる中をとぼとぼ帰ってきた、片手に杖を突き、片手に傘を差しながら。

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男衆が魚を捕まえ、洗い落とし、切り身にします

2017年10月15日 06時21分34秒 | Weblog

男衆が、魚を洗います。どぶ水の臭いがぷんぷんします。ハラワタを出して細かく切り分けます。みなさんお上手です。大きい鯉は刺し身になります。小さいのはフライになります。中くらいのはグツグツ煮込みます。その外、鯉濃の味噌スープにもなります。おにぎりとぼた餅も作られます。レンコン牛蒡の煮込みも列びます。料理は女衆が担当します。公民館の大広間のお座敷にテーブルを列べて一同が席に着きます。お酒が振る舞われます。

お祭りには近くの大学の教授と学生たちも毎年参加をしています。外国人留学生たちもいっしょです。こうした地域社会の行事に参加するプログラムがあるようです。エプロン姿で手伝っています。溜池での魚取りには加わっていません。時間が早いからでしょうね。

高齢のわたしは席について傍観しているだけです。牡丹餅とおにぎりとレンコン牛蒡の煮込みとお漬け物が好きです。ビールも日本酒も振る舞われます。里中の人たちとの話が弾みます。

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雨の日だけど、今日は里中のお祭り

2017年10月15日 05時44分06秒 | Weblog

雨の音がしています。降っています、たしかに。今日は一日閉じ込められそうです。畑に出ていくことはできません。出て行っても作業はできません。じっと眺めているきりです。植え替えた野菜苗たちはよろこんでいるでしょう、しっかり根付くには雨水が欠かせませんから。あ、それから、プランターに蒔いた種もやはり雨水の助けを欲しがります。昨日だけでプランター6個分種蒔きしました。種がよろこぶために。それをみて自分がよろこぶために。

今日はこの里中の小さな集落の溜池干しがあります。お祭りです。溜池は山麓に2つあります。大きい溜池です。水田に水がいらなくなったころを見計らって池の水を抜き、掃除をします。2つある内の一つの方の水が干上がります。つまり2年ぶりに池が底を見せます。鮒とか鯉とか鮠とか鯰とか、魚がたくさんいます。それをみんなで料理して食べます。

これは農業用の溜池です。管理者は里中のお百姓さんたちです。わたしのところには田圃はありません。でもここに暮らしている人たちがみんな集まります。田圃があろうとなかろうとおかまいなしに。このところ、農業の継承者がいません。若い人はあまりいません。老人も高齢化して大型トラクターが使えません。それでみな協同組合あたりに委託しています。

祭りの推進委員の方たちがレインコートを着て池の底に下りていき、一カ所に集まってきた魚を捕まえるのでしょう、きっと。もう始まっているかも知れません。

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