帰宅しました。バス一台46人の共同生活に従うのに疲れた。日頃が日頃。いつもはひとり暗い穴熊の暮らししてるからなあ。よくぞ従い得たものだ。この老爺はまだ幾分か協調性を遺していたと見える。我ながら上等なんじゃないかな。
我が家の湯に浸かった。どたん。寝る。いやあ、旅の間よく歩いた。ちょこちょこちょこちょこ。杖にすがって。みなさんにも迷惑をかけたろう。
帰宅しました。バス一台46人の共同生活に従うのに疲れた。日頃が日頃。いつもはひとり暗い穴熊の暮らししてるからなあ。よくぞ従い得たものだ。この老爺はまだ幾分か協調性を遺していたと見える。我ながら上等なんじゃないかな。
我が家の湯に浸かった。どたん。寝る。いやあ、旅の間よく歩いた。ちょこちょこちょこちょこ。杖にすがって。みなさんにも迷惑をかけたろう。
自力を頼むことができる者は有力者である。能力者である。社会正義的にも適格者である。彼は己を善人に仕立てる可能性がある。
頼むことができない者は他力を頼む以外にこここを切り抜けていく方法はない。自己を投げ捨てるしかない。明け渡すしかない。
自己善人はこの必要がない。
不適格者は死後に希望を繋ぐことになる。死後の世界で適格者を図ることになる。それよりない。再生を図るのである。
☆
だが、仏の目には適格者も不適格者もない。仏智と慈悲しかないのである。
砂川ハイウェイオアシスでトイレ休憩。試食の旭川ラーメンを食べた。食い逃げが気が咎めたので、3パックを土産とした。送料無料だとか。旅行客は財布の紐が緩い。すぐにお金持ち気分を装う。白い恋人チョコまで買ってしまった。旅はもうすぐ終わる。北海道の紅葉は黄色い葉だった。白樺の白い樹皮が印象的だった。
親鸞聖人は悪人正機説を唱えた。悪人こそが阿弥陀仏の救済の第一眼目である、と。人間社会で見捨てられた、見放された人であっても、阿弥陀仏が見捨てることはない、見放すことはない、と。仏には差別がないのである。であるから、仏の目には悪人も善人もないはずである。だから、平等正機である。この世にあって苦辛を嘗めた者にはねぎらいしかないはずである。慈悲の涙で迎え取られるしかないはずである。そしてその後で仏智を授けられると思う。
あくまでもこの人間社会にしか善悪の基準はない。善人悪人の基準はない。と、僕は思う。人間社会ではわたしを善人とし、わたしに背く者を悪人とするに過ぎない。だが、他者を悪人と限定する者が善人かどうか、あやしいだろう。
悪人は救済されない。悪人を排除する。悪人は助けない。悪人は幸福になってはならない。などという正義はない。そういう論理を振りかざす善人は善人とは言えそうもない。
などとも考えた。わたしに善悪、善人悪人を識別する能力はあるか。ありそうにない。
悪はあっても悪人はいない。悪人という人間はいない。徹頭徹尾の悪ないし悪人はいない。善についても同様である。ではないか。そういうことを今朝は考えた。
層雲峡は寒い。朝湯ここちよし。朝食は粥を食べた。さらさらの粥がおいしかった。8時出発。千歳空港に向かう。夕方には福岡空港に着く予定。