どの道死ぬんだよ。物質としてのわたしは、空っぽになるんだよ。これは、千年万年億年貫いて変わらず、ということはない。物質としてのわたしは空っぽになる。そうなれば、この世のことは残骸だらけになる。いや、それすらも残らない。物質は無常である。永遠はない。物質に永遠はない。しかし、にもかかわらず、それに執着する。それを絶対にして駆け巡る。東奔西走する。しかし、有形のときは瞬時である。無形になれば跡形もない。泡沫の泡に等しい。泡に等しいことに生涯を賭けてきた己の浅慮さ。それで、威張って来たのだ。これを絶対視して暮らしてきたのである。泡がプツプツ音を立てて消える。おのれの生涯は泡だったのか。初めてそういう視点が立ち上がる。どの道死ぬ。しかし、死なないものはないか。ほんとうにないか。そこを突破して行く。突破の道が見えてくる。
今日の日まで無事に生きて、よってたかって大事に大事に生かされて来たんだから、これからももっともっととねだるのはよくないよなあ。ねだって当たり前じゃないよなあ。与えてもらって与えてもらって与えてもらって来たのだから、もっと欲しいはないよなあ。みっともないよなあ。だよなあ。これまで守っても守ってもらって来たんだから、それを反故にしたようにしてもっと守っていてほしいなんて言い出すのは強欲傲慢だよなあ。導かれて導かれて導かれて来たというのに、それでも満足を知らないでいるというのは、「これまでの人生は何だったんだ」ってことになってしまうよなあ。せっかくのお慈悲、百千万億兆のお慈悲をみいんな洩らして洩らしてしまったことになるよなあ。少しでも心の片隅に残しているのなら、「もっともっとお願いします」だなんてことにはなりようがないはず。今日で完了をしていいよなあ。思い巡らせば思い巡らすほど、今日完了の言い渡しが聞こえても、「それに順います」でいいはずだよなあ。「はず」が「はず」にならずに、明日を願ったり祈ったり念じたりするんだろうねえ。強欲傲慢まみれだよねえ。「有り難うございました」の一言で終熄できねばならないはずなんだがねえ。明日を願ったり祈ったり念じたりするのは罪が深いねえ。重罪だねえ。
メンデルスゾーンの曲を聴いている。無言歌集「ベネチアのゴンドラの舟歌」が流れている。僕はうっとりしている。こんなうっとりの仕方があるのなら、難しい他のやり方からは手を引いていいと思う。耳のうっとりだけでは嫌だ、なんて言わなくともよさそうに思う。耳のうっとりは、大きな安らぎの海に流れ込んでいると思う。そこにはありとあらゆるたくさんの大河が流れ込んできて、そのどれもが一つの大きな安らぎになって、それが集合結果して海を造っているのだと思う。
明日から北海道へ飛ぶ。飛行機が嫌いなくせに。長い旅ではない。それで少しばかり旅支度をした。古い鞄を改めているとそこからマザー・テレサの文章が書き留められたメモ用紙が出て来た。それにはこうあった。(いったい何年前のものだろう?)
「すべての宗教は永遠なるもの、つまりもう一つの命を信じています。この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人は死を恐れます。もしも死は神の家に帰ることだと正しく説明されれば、死を恐れることはなくなるのです。 マザー・テレサ「日々の言葉」より
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同調をしたから此処に書き付けたのだと思う。キリスト教だろうと仏教だろうと共通しているものはあるのだ。そう思う。僕は若い頃よりマザー・テレサの信奉者である。深いところは分かってはいないから、信奉はできていないと思うが。でも一々肯ける。真理は一つだと思う。表現の仕方は異なっていても一つのことを指し示しているのだと思う。「神の家に帰る」のだと思う。ぶち切られることのない永遠のいのちがあるのだと思う。
わたしはつまらない生き方しか出来なかったが、それでもそれでよかったのだと思う。帰るところがあるのだから。わたしは待たれているのだから。そこであらためて向上の道に就くのだと思う。新しく新しく進んで行くのだと思う。つまらない生き方ではない生き方が示されているところへ行き着けるのだから。
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北海道はもしかしたらもう雪が降っているかも知れない。ぶるぶる震えてしまうかも知れない。天気予報では晴れと出ていたが。最低気温は一桁だったようだ。
日中は日が射して暑い。下着一枚だけになっている。夜明け方朝方はあんなに寒く感じたのに。寒暖の差が大きい。で、畑に出て作業する気にはなれないでいる。午前中に畑の周りを歩き回って、苦瓜を1個見つけた。たっぷりした、肌つやのいい苦瓜だった。頬に当てて楽しんだ。日が落ちてきたら、じっとしてはいられなくなるだろう。土遊びの何かはしよう。
僕は、午前中に新しい詩を書いた。1行12字x26行の。すんなりと出来上がって、ご満悦の態(てい)だった。お昼ご飯の後で、季節をテーマにしたエッセーを書いた。20字x30行=600字の。うううん、平板(へいばん)の誹りは免れまい。この2作品に合計2時間を掛けた。僕に適合した2時間分の魂の食事にはなったと思う。いつか、このブログにも載せてみたいと思う。半年後くらいになって。
そう。風が仏陀だ。空が仏陀だ。仏陀って完成者ってことだから、そうなんだ。間違っていない。何時でもそこで完成している。だから、心配しなくていいんだよ。わたしは完成の中にいるんだから。でもわたしが、風を完成させたんじゃないよ。わたしが空を完成させたんじゃないよ。わたしはそれを見て、首を縦に振って、ふふふ、ふふふとにっこりの顔をしているだけでいい。安心のにっこりの目をしていればそれでいい。それでわたしも完成する。風と楽々の横並びが出来る。空と対等の横並びが出来る。こんなに鷹揚なわたしでよかったんだ。風を撫でるブランコを揺らして、空に抱かれていればよかったんだ。
身軽でないと死の国まで飛んで行けないよ。重々しく装備していなくてもいいんだよ。気楽にしていていいんだよ。鉄の重さは無用。死はわたしの仕事ではない。仏陀がなさること。わたしはただ、だから、風に吹かれていればいい。そう、風はまさしく仏陀の風。仏陀そのもの。お任せしていればいい。南無していればいい。帰命していればいい。ここはただ生きていることを楽しむところ。暮らしていくだけの条件はみんなぬかりなく整えてある。わたしは一生呆け者でよかったんだって、後で知って驚くだろうなあ。それを知らないから、己を装備して重々しくする。したがる。正義に生きて尊敬されなくちゃならないなんて思い違いする。知識量や実績量を増やしてうんと褒められなくちゃなんて勘違いする。そんなもの、あったってなくったって、そこに風がある空がある。
昨日このブログ「おでいげにおいでおいで」にお遊びにお出でいただいた方は182人、読んで頂いたブログの総数は1373個数になっていました。有り難うございました。
でもそれを知ると、ついつい「ごめんなさいね」が飛び出してしまいます。つまらなかっただろうな、がっかりされただろうな、と思います。
僕の頭の中は空っぽです。それを熟々(つくづく)感じます。でも大丈夫。「言葉は風のようなものだから」と思い直します。そう、どこからともなく吹いてくるもののよう。そしてそこに満ち渡っているもののよう。個有財産ではなくて共有財産なんだなあと。
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芒の穂、尾花は賢者だ。穂が風に飛んでいくのは軽いから。重たくしていないから。そして落ちる。すると今度は花穂ではなくて、実穂になる。空っぽじゃなかったんだ。種を遺していたんだ。種に変身したらそこから発芽が始まる。するともう新しい一生になっている。植物は賢者だなあと思う。生命体はみんなそう。感心する。
わたしが風に飛ばされて行ったら、そこでまた新しい一生が芽生えているといいだろうな。そのためにはできるだけ軽くしておくこと。空っぽでいるべきこと。此処まで来て帳尻が合う。ほっとする。そうなんだ、これでよかったんだ。ありのままの身軽るでよかったんだ。無理に重たくしなくてもいい。なんと不可思議ワンダフルなことか。この装備無しシステムに感心する。
秋の野に芒、芒、芒。一面の芒。これで爽快な秋の野を演出している。
生は一時のくらゐなり 死も一時のくらゐなり 道元禅師
夜な夜な死という艶めかしいおんなの許へ忍んで行くなかれ。盤石の座の座禅石に座禅して、この一時のくらゐに安住せよ。朝な朝な逞しいおとこの生の胸に抱かれに行く死よ、間男をするな。死もまた盤石の座のくらゐなり。一時を二時に移すことなかれ。
生の時には生の一時に没頭して涼風あり、死の時には死の一時に耽溺して爽快あり。只管打坐、只管打坐。そこに座してひたすらせよ。
☆
道元禅師の句をこのように読んでみた。修行をしていない男の考えることである。さだめし欺罔の藪の中ならん。
せっかく辿り着いた一時のくらゐである。今はただ獲得のそのくらゐを尊重するべし。死するときには盤石の死のくらゐを得て不動ならん。