<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

衣を透かして輝き渡るほどの美貌の人 衣透姫

2017年10月17日 18時16分31秒 | Weblog

もう一首、我が日本国の古歌に親しみたい。西暦5世紀頃の歌だが、現代に取り上げても哀切である。

我が夫子(せこ)が来べき宵なりささがねの蜘蛛の行い今宵著(しる)しも    衣透郎姫(そとおりのいらつめ) 日本書紀

「ささがね」は「笹ケ根」。笹の根元に巣を張るところから、蜘蛛に掛かる枕詞とも取れる。

作者衣透姫は応神天皇の孫に当たる。容姿があまりにも美しく絶妙で衣を透かして輝き渡ったという。妻ある允恭天皇に寵愛されたが、悲恋に終わったようだ。後世、紀伊国和歌浦、玉津島神社に神功皇后とともに祀られた。

蜘蛛は「喜母」とも書く。吉兆を運んで来たという。蜘蛛が衣に匍うと親しい人が来訪するという言い習わしがあったようだ。中国古代の俗信である。

我が夫子(せこ)は我が思う人。姫は、允恭天皇が姫宮とするところに渡って来ることを予知して、歌にした。きっとそうだと思ってこころが逸(はや)ったのである。なぜそうと言えるか。蜘蛛が姫の来ている衣に来て、その吉兆を報せたからである。

今宵こそは天皇がわたしに逢いに来て下さるだろう、断定していい。ごらんなさい、蜘蛛がわたしの衣に匍って、それを知らせてくれている。彼女のこころは蜘蛛の動きと同じようにいそいそとなった。

歌は切ない。恋の歌は切ない。切なさを煽る。老爺がこれを読んでもこの通り、華やいでくる。いかなる世であろうとも、人と人は愛情を滾らせておくべきである。朝も昼も夜も、冷え切った夜空のようではつまらない。

行く機会があったら紀伊国、和歌浦の玉津島神社の赤い鳥居を潜ってみたいものだ。11月になって思い切って尋ねてみようか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿本人麻呂の挽歌を推量してみる

2017年10月17日 17時35分40秒 | Weblog

隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ    柿本人麻呂 万葉集

天皇家に仕えていた采女(うねめ)、土方娘子(ひじかたのおとめこ)が若くして死んで火葬された。それを悼んで人麻呂が挽歌を詠った。死は雲であった。泊瀬は現在の奈良県初瀬。隠口(こもりく)は枕詞で泊瀬に掛かる。「隠処」とも書く。初瀬は分け入った山の奥にあるのだろうか。或いは、死というのが隠れることに相通じているのだろうか。美しかった娘がいまは山の間に掛かる雲になって漂っている。それを作者が仰いで、悲しく見送った人の心情を思い遣っているのだろう。その頃は火葬は希だっただろうから、天皇の思い入れが相当に高かった人かも知れない。火葬に付した煙は紫色の雲になって山の奥まで蔽っていたに違いない、悼む人の目には。死とはいったい何物なのか。当時も今もやはり不可解である。人の目を暫く隠れることだったとしても、やはり忍びないことだったことだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アムリタ・甘露の教えは不死不滅の教え

2017年10月17日 10時29分05秒 | Weblog

今日は僕はここに立ち寄ることにする。ここで茶を飲んで一服する。茶は、陀羅尼という甘露茶である。唱えて唱えてともかくごっくんと飲み干す。あとは胃腸などの消化器官にまかせる。

・・・・アミイリテイ/アミリトウドバンベイ/アミリタ・サンバンベイ/アミリタ・ギャラベイ/アミリタ・シッデイ/アミリタ・テイゼイ/アミリタ・ビキランデイ/アミリタ・ビキランタ・ギャミネイ/アミリタ・ギャギャノウ・キチキャレイ/アミリタ・ドンドビ・ソバレイ・・・・   「阿弥陀如来根本陀羅尼」より

ここに「アミリタ」「アムリタ」「アミリテイ」などの語が列べられている。どれも「甘露」と訳される。甘露とは何か。

日本には「甘露煮」などの料理がある。最高においしいときに「甘露の味がする」ともいう。甘露茶は煎茶の特上品。「甘露日」とは何事をしてもすべてうまく成就する大吉の日を指す。「甘露法」は仏陀の教えのこと。

アミリタは中国で「不死」と訳された。「不滅・不死」の義である。死なない命、死なない命を持つ者のことである。阿弥陀如来の「アミタ」も「無量寿・無量光」の意味を持つ。そもそもは「リグ・ベーダ」に登場する不死の霊薬・ソーマ酒にその由来があるらしい。

陀羅尼は仏の言葉。梵語「ダーラニー」が言語。少し長い呪文。マントラ、真言に同じ。陀羅尼を唱えて、一日駅長宜しく、仏と合体を試みる。僕の場合はただの真似事。

甘露尊よ、阿弥陀如来よ、甘露より生じた尊よ、甘露より出現した尊よ、甘露を身のうちに持つ尊よ、甘露を成就した尊よ、甘露の威光ある尊よ、甘露の勇ましい歩みをなす尊よ、甘露の歩みを堂々と進める尊よ、甘露の虚空のように名声を轟かせる尊よ、甘露の鼓を打つ尊よ、阿弥陀如来よ。

・・・ものの本によると、大凡こうした意味合いらしい。こうして阿弥陀如来とその教えを賞賛している陀羅尼のようだ。それでこの陀羅尼は「阿弥陀如来大呪」とも呼ばれているらしい。 

陀羅尼の言っているレベルがおっそろしく高い。己如き煩悩人・凡愚がとてもはいはいと付いていけるものではない。

Man is mortal. 人は死すべき存在である。そうなのだ、歴史上、死なない者は一人もいなかったのだ。それを、その人間の事実を、仏教の教えは超えさせる。仏は不死を成就しているというのである。陀羅尼は此処へ来いと誘(いざな)うのである。

さ、休憩は此処で終わる。甘露尊は不死尊、阿弥陀如来(=無量寿如来)である。滾々と滾々と如来がわたしに説き聞かせる。汝も不死である、汝もさまざまな生死の巡歴をした後でやがて不死の仏と成る、と。絶対無比の安心をしろ、と。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしはその人のやさしい瞳を描く

2017年10月17日 09時40分18秒 | Weblog

雨は止んでいる。空は相変わらずどんよりしているが。わたしはあの人のことを思っている。わたしに繋がる人のことだ。こころを寄せ合ってしか暮らせないのだ、誰もが。海が水を寄せ合っているように、空が風を寄せ合っているように、大地が土を寄せ合っているように、そのように。わたしたちもこころを寄せ合っていなければ、到底生きてはいけないのだ。それを無理矢理離そうとするものだから、そこに亀裂が入るのだ。入る必要のない亀裂が生じるのだ。わたしのあの人は実体ではない。実体でなくともいい。雲でいい、虹でいい。そこに存在していると思いさえすればいいのだ。互を求め合って、手を取り合っていると空想していさえすれば、それですむことだ。ひどく簡単なことなのだ。雨は止んでいるが、風が強い。それが寒い。アスパラガスのしなやかな茎と緑の細い葉っぱがゆらゆらに揺れている。わたしはクレヨン水彩でその人のやさしい瞳を描く。細い首元を浮き立たせる、白い肩をなぞる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物体は非物体に支えられている

2017年10月17日 09時15分33秒 | Weblog

わたしが、すっかり前後を遮断されてしまっているわけがない。わたしの海が、ほかの大きな海から無視されてたゆたっているわけがない。わたしの空が、すっかり前後左右を遮断されてしまっているわけがない。わたしだけの空が、わたしだけの空の力で運営されているとはどうしても思えない。前後があって左右があって上下があって、そういう繋がり合いでもって存在しているに違いない、そう思う。関わり合って関わり合って、そこで初めて存在が出来ているのだと思う。わたしの命もそう。きっとそう。棒切れじゃない。始まりの端と終わりの端があるわけがない。霞んで見えているだけで、次へ次へと繋がり合っているのだと思う。単独なんてあり得ない。平面的であるはずはない。一個の三角錐ではない。そんな物体ではない。物体は物体でも非物体に支えられているはずだ。抱擁されているはずだ。肉体という物体をわたしの見える形にしているだけれど、それは肉体を超える超物体構造の中で初めてそうなりえているだけだ。限りなく続く広大無辺の宇宙がそれを如実に教えているではないか。わたしも命の宇宙である。命の宇宙を生き続けているわたしである。むろん、あなたも。あなたも無限の広大無辺の命の宇宙を生き続けている。孤立はない。孤独ではない。切断されてはいない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失笑するとしんとなる

2017年10月17日 04時44分40秒 | Weblog

馬脚を現すってあるでしょ。馬を演じているのに、人間の脚、嘘脚が覗いている。縫いぐるみの馬の頭だけが馬を演じている。見ている人も人で、それが分かっていて、その気分を大事にしてくれている。賑わいを楽しんでくれている。それで馬脚が続けられる。馬脚も馬脚で、恥を知らない。縫いぐるみの馬がなくなってからもちょいちょい馬になりたがる。そんな自分を失笑する。しんとなる。もう賑わいは聞こえてこない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だったら、友達会にしましょと言う

2017年10月17日 04時28分04秒 | Weblog

真夜中の4時30分、いま。雨の音がしている。雨垂れの音がしている。降り続けているんだあ。

今日は来客がある。初めて教壇に立ったその年の生徒さんが連れ立ってやって来る。弁当を作って来る。

僕がそういう場へ行こうとしないから、押しかけて来る。逃げようがない。

先生って顔していないんだ。そういう暮らしもしていないんだ。だらしなくしているだくなので、恥ずかしくてならないんだ。昔平気で先生の顔をしていたということも恥じられてならないんだ。それをあかされる。鼻白むよ。

だったら、友達会にしましょと彼女らは言う。そしてぎゃぁぎゃぁ笑う。僕をちゃん付けして笑う。みんな還暦はとっくに過ぎている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死ななければ、ずううっとずっと間違い続けているところだった

2017年10月17日 04時16分56秒 | Weblog

死ななければ、ずううっとずっと間違い続けているところだった。それを糾された。僕は正しくされた。ああよかったと思った。狭いところから一挙に広いところへ出たって感じになった。もう小さな我見に捕まっていなくてもよくなったのだった。僕は急にニコニコしだした。縛り付けられていた縄がぷちんと音を立てて切断されたって感じだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕はそれを糾されなければならない時がやって来た

2017年10月17日 03時53分50秒 | Weblog

フウウーン、そうだったのかあ。そんなもん、デタラメのコネマワシの作り事だと決めつけていたのに。そうじゃなかったのかあ。僕が間違っていたのかあ。なあーんだ。デタラメでもなくコネマワシでもなく、作り事でもなかったのだあ。僕は顔を赤らめる。恐縮する。ひれ伏してしまう。浅知恵は僕の方だったのだ。竈の神さまはまさしく神さまだったのだあ。

そこに見えないので、火の神さまの竈の神さまはマヤカシだとばかにしてた。僕はそこに見えるものだけ、指にさわれるものだけを信用していた。僕の指も僕の全体も形があって触れて見えていたから。僕はそれを糾されなければならない時がやって来た。僕自身が形を失う時がやって来たのだった。それからだ。ほんとうに目が見えるようになったのは! 形のないものでも見えるようになったからだ。僕は真実を見る段階に進まされたのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする