おおきみは かみにしませば あまぐもの いかづちのうへに いほりせるかも
大君は神にしませば 天雲の雷の上に廬せるかも 柿本人麻呂 (万葉集 巻の第3)
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此処の場合の大君は持統天皇である。天皇が雷岳(いかづちだけ=飛鳥村大字雷)に行幸になられた。そのときに人麻呂が歌を献じたのである。神とは現人神(あらひとがみ)の意だろう。雷岳の山の上に行宮(あんぐう)をお建てになったのだろう。そこが神の廬(いほり=行宮)となったときに、天雲がたなびいた。背景にそんな事情があるのかもしれない。雷神のその上に位置している大君を賞賛して言祝いだのだろう。
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それはそれでよし。畏れ多くもさぶろうは、さぶうろうを大君に仕立て上げて遊ぶことにする。代行業みたいなものである。しばらく許されよ。天雲が山頂にたなびいている。時は春がいい。しかし、春は雷神はあまり好みではないから、夏とするか。なにしろ雷神が登場してくれないとこの歌は成立しない。ごろごろ神鳴りがしていることが望ましい。その真上に堂々の行宮=廬を建てるのである。さぞかし見晴らしがいいことだろう。眺望がきくであろう。愉快であろう。大君とはそういう高い位置からの統治を担当できる人のことである。代行業のさぶろうにも、当然そういう高邁な精神が宿っていなければならぬことになる。宿らせてみてみたいのである。