<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

畑に出ていけないと、時間が潰れない。

2021年12月14日 17時53分42秒 | Weblog

これから寒さが募る。一日一日募る。畑に出て行けなくなる。困った。時間が潰れない。

 

家の中でごろごろしているばかりはイヤだ。日が暮れない。

 

何か工夫がいる。ごろごろを抜け出す工夫がいる。毎日、それを考えなくてはならない。

 

日が照ってうまく畑に出て行けたにしても、植えるものがない。この寒さでは、種を蒔いても発芽しない。苗を植え付けても、それから先、成長がストップしてしまう。

 

ま、草毟りくらいはある。雑草は、逞しいから、冬の間も伸びる。

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こうして、ともかくも一日が終了した。生き延びた。

2021年12月14日 17時36分16秒 | Weblog

午後から一輪車に農具と肥料と座椅子を積んで、北の畑に行って来た。

 

薩摩芋を収穫したあとが、でこぼこになって、荒れたままになっている。なんだかみっともない。

 

で、耕して、畝を作った。こうすると人の手が加わった格好になる。荒れ果てた感じが薄まる。

 

肥料は午前中に有機鶏糞を買って来ていた。有機石灰もバケツにいれて持って来た。

 

盛り上げた畝に、晩生の玉葱を植え付けた。玉葱は肥料をたっぷりやらないと太らない、と友人からのアドバイスをもらっていた。

 

夕方4時半になった。帰る準備に入った。市役所の5時の音楽が鳴った。いきなり寒くなった。

 

通りかかった人が、そんなにたくさん玉葱を植えてどうするんですか、と問い掛けて来た。

 

そうなんだ、それほどたくさん植えたんだ。でも、大丈夫。例年、このお爺さんが育てた玉葱は、ピンポン球くらいにしかならない。

 

マーケットに売られている分の3分の1から4分の1程度の大きさだ。大丈夫。捨てないで食べてしまう。

 

荒れているよりは野菜類が育っている方がなんだか見栄えがいいではないか。放棄されていない、という印象を与えられるだろう。

 

こうして一日が終了した。ハタライタというのは大袈裟すぎるが、ともかく体を動かした。その程度の満足感がある。

 

 

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不安定をやや安定にするために書くブログ。

2021年12月14日 17時29分57秒 | Weblog

すぐには書けない。書こうと思っても。で、しばらくお天気のことなどを持ち出して来る。

 

するうち、書き出しエンジンが温まって来る。

 

ブログが一篇書ける。誰かのためにではない。まずは己を慰めるために。

 

不安定をやや安定にするために。そわそわしないでいいようにするために。

 

 

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庭の石蕗が長いこと咲いている。

2021年12月14日 14時16分18秒 | Weblog

庭の石蕗が、黄金色をして長いこと咲いている。まだ散らない。

 

わたしはやがて死ぬことになる。するともう、石蕗の花を愛でることはできない。

 

いまのうちしかできない。で、わたしのために咲いている。散らないでいる。

 

わたしが石蕗を美しいと思って愛でると、それが即、わたしが生きて来た地球を美しく愛でることにもなる。

 

そう思って眺めていると、愛着が湧く。親しみをさえ感じる。余計に美しさを感じてしまう。

 

死んだら、途端に、石蕗の黄金の価値が百倍千倍になる。

 

百倍千倍になっても、しかし、目の前で見ることはできない。

 

ああ、美しかった、地球は美しかった、地球という処には美しい花が咲いていた、生きているということは美しいことであった、とそんなふうに回顧するだけだろう。

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寂しいから、花屋さんに行って来た。

2021年12月14日 14時07分56秒 | Weblog

寂しいから、思い切って、花屋さんに行って、豪勢なシンビジュームを買って来た。ピンクのシンビジュームを。

 

帰って来て、玄関に飾った。気分がこれで少しだけ華やかになった。

 

寂しいとお金が掛かってしまう。よくないよくない。寂しくならないようにしていなければ。

 

でも寂しいときが来る。きっと来る。行き過ぎてしまわないで、しばらく留まっている。

 

寂しささんは、ほんとうは慰めにきているのかもしれない。優しい友人なのかも知れない。

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日が翳ると寒くて、身がすくんでしまう。

2021年12月14日 13時51分13秒 | Weblog

日が翳ったり、明るくなったりしている。寒い。午後2時で、10・3℃。日が翳るとすくんでしまう。

 

すくませまいと、太陽さんが気張るが、雲さんがそれを覆ってしまう。

 

日が翳るとすくむが、すくまないでいるときもある。日が照っているときである。しかし、そのときには、すくまないでいること、怯まないでいることに注意を払うことはない。日が翳ったときでないと、その有り難さが分からない。

 

同じ事が言える。病と健康でもそれが言える。幸福と不幸の間でもそれが言える。貧乏と富裕との関わりにもそれが言える。

 

有り難いという感情は、コンデイションが整っているときには湧かない。だから、湧かしたければ、その逆の位置にいればいいのである。病んでいるときにしか、健康の有り難さが実感できない。

 

健康でいたいけれど、健康だけで生きていると、健康でいる感謝が湧かないのである。傲慢な人間になってしまうのである。そうならないためには、病という注射が必要になる。不思議なことだ。

 

慎ましく生きるたけには、したがって、プラスだけではなく、マイナスも欠かせないのである。

 

傲慢は人を先に歩ませない。慎ましくしているときに、人は先へ歩もうという決心を得る。前進する価値を見いだす。だから、マイナスの位置にいることを恨んではならない。

 

恨まないようにしたいと思う。

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