僕は、世間には通用していない人間のようだ、どうも。
はずれている。
どうも世間の物差しをわが物差しとすることができない。
我が物差しが世間のそれと不一致なのだろう。
☆
であって、空が美しい。山が美しい。夕月が美しい。ここには大いに感動を覚えている。
ここに救われている。
山里のお爺さん、がっかりしないでいいよ。希望はあるよ。そんな慰め言葉をかけて、一日を終わろう。
僕は、世間には通用していない人間のようだ、どうも。
はずれている。
どうも世間の物差しをわが物差しとすることができない。
我が物差しが世間のそれと不一致なのだろう。
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であって、空が美しい。山が美しい。夕月が美しい。ここには大いに感動を覚えている。
ここに救われている。
山里のお爺さん、がっかりしないでいいよ。希望はあるよ。そんな慰め言葉をかけて、一日を終わろう。
わはは、わはは。
もしももしも、僕が選者だったら、この17の作品のどれも入選にはしなかっただろう。
もちろん、選者になどなることは0%の0%だけど。
(この発想は不遜だろうか)
俳句と短歌というのはそんなにハードルが高いのだろうか?
僕の美意識に問題があるのだろうか。あるはずだ。
☆
今日、近くの人が、全国に読者を持つある新聞を持って来てくださった。読者文芸の俳壇と歌壇の「2021年の秀作・上」を切り抜いて。
お礼を述べた。畑仕事を終えてから読み始めた。俳壇も歌壇も読み終わった。
超有名な選者が選んだ年間の秀作17x2=34作品なのに、僕はこころを動かさなかった。最後までついに動かさなかった。
僕の鑑賞レベル+創作レベルが著しく低いということが、これでますますはっきりしたと思った。
だからだったのか、と思った。別の新聞にだが、僕の投稿した作品はどれもどれも落選ばかりが続いた。この一年、オール落選だった。
どうしたらいいんだろう? 悲しくなってしまった。鑑賞能力すらも僕には育っていなかったのだ。
鑑賞能力が低ければ、当然、創作能力が低い。それでも、それでも、僕は僕。でいいのだろうか? 自分が創作してそれで楽しんでいればいい? この考えは、間違っているかもしれない。
5時半まで畑にいた。いましがた家の中に戻って来て、炬燵で暖を取っている。
暇だから、暇を埋めないとどうしようもない。で、畑に相手をしてもらう、ということになる。
畑に出て行くと、するべきことが見つかる。あれをしてこれをする。それが終わると、またあれとこれが見つかる。それをする。
午前も午後も、こうした畑のサジェスチョンに従った。
午前中は、エンドウ豆の畝が草に覆われていたので、草取りをした。午後は空豆の畝に回った。
抜いた草はバケツに入れて、処理場に運んだ。抜いた草が堆く積もった。
途中、大葱、九条葱、一本フトネギの土寄せもした。蕗の畑にも回った。いろんなことをした。
日が照ると、ラクダを脱いだ。日が翳ると、ラクダを重ねた。
ラクダというのはラクダの色の厚い下着のことである。これを重なると防寒になる。
まあ、しかし、このお爺さんはよく働いた。飽きもせずに。黙々と黙々と。
重労働ではない。しかも、休み休みだ。移動できる丸椅子に座っての作業だから、楽は楽である。
午後に、家内の友人が訪ねてこられた。畑に育っている新鮮野菜類をあれこれあれこれたくさん差し上げた。
人様に食べてもらわないと、我が家で食べきれるものではない。ふんだんにある。食べきれない分は、菜の花が咲いて終わりになる。