ここで資料館や本などで見聞した、沖縄県の歴史をちょっとおさらい。
もともと沖縄県は琉球國と言い、日本(本土)とは別の独立国であった。
14世紀に建国、首里城に国王さまを置くなど450年間続いていたが、1879(明治12)年、明治政府の廃藩置県実施に伴い、琉球國を鹿児島縣に編入。しばらくすると、「沖繩縣」を設置。これを「琉球処分」と言う。
1945(昭和20)年、米軍が本土攻略の航空基地・補給基地の確保のため沖縄に上陸、沖縄戦開始。
同年6月23日に第32軍司令官牛島満が自決、住民を巻き込んだ組織的戦闘は終結。7月4日に実質的に沖縄戦は終わったとされているが、実際に降伏文書が取り交わされたのは9月7日。
ポツダム宣言で大日本帝國が無条件降伏を受諾。
琉球列島はアメリカが支配する外国になってしまった。
アメリカによる「琉球政府」が置かれ、通貨もドル、交通区分もアメリカと同じ。
1972(昭和47)年5月15日に復帰する前までは、沖縄県民でさえもパスポートなしでは諸外国はもちろん、本土にすら自由に行き来することはできなかった。
資料館に当時のパスポートが展示されていたので、パチリ。
(個人情報保護のため、氏名と顔は画像処理してあります)
復帰前の最終パスポートは1972年5月13日発行の541285番。
高校野球の球児も甲子園に行くのにそのようなパスポートを持たせていたのですねぇ。
復帰前の沖縄県における通貨はアメリカと同じくドルだった。
当時は固定相場制で1ドル=360円と定められていたので、両替に大きな混乱はなかったみたい。日本人なのに、伊藤博文や聖徳太子のお札を手にして「計算が大変だ」と違和感がする沖縄県民でさえもいたらしい。
「1ドル=110円として買い物ができます」などレジに表示しているスーパーやお土産ショップを今でも見かける。
復帰の総仕上げは1978(昭和53)年7月30日午前6時に実施された交通区分の変更。
アメリカと同じく右通行で走行中、午前6時ピッタリに左に移動とは大きな混乱や事故も多発されるかも知れないと前日の午後10時に沖縄県全地域で自動車の使用が禁じられ、翌朝6時までは通行止め。10時を過ぎても走り続ける車やバスのために警察官による交通整理。
その8時間の間にあらかじめ設置された日本の道路標識の覆いを取り外す作業が行われていた。
鉄道のない沖縄県では路線バスだけが頼り。乗降口もまるっきり変わることになり、国と沖縄県の補助で新車1000台が一斉に動き出したのもその日から。
さて、古いバスはどうしたかって、「那覇交通」と表示されたままのバスが中国に譲ったらしいです。