あけぼの

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行くのが楽しみな病院とは

2015-02-09 08:25:44 | 旅行記、多文化教育、国際

優しい先生がいらっしゃる病院だろう。筆者にとってはそうだ。立川共済病院とのお付き合いは2年ぐらいか。アメリカで便器が真っ赤になり到着後1週間弱ですっ飛んで帰国した「お丸狂騒曲」―犯人は実はビーツだったが―事件からのお付き合いだ。内科のF先生は患者のことを親身に心配してくださる、笑顔が魅力的でスレンダーな先生だ。血液検査の結果を問題ごとにグラフにし、小さな異常も見逃されない。そのおかげで昨年既往症の転位も発見して頂いた。先日の定期検診では、「過去で一番成績がいいですよ!CEA(健康な皆様には無関係な略号)の値が少し下がり、中性脂肪も下がり、悪玉コレステロールまで下がってますよ!」と。「お蔭さまです!」。転位を発見して頂いた検査の延長で甲状腺の検査もして頂いたがこちらも良性腫瘍という結果だった。この耳鼻咽喉科のH先生も童顔が可愛いニコニコ先生で質問には丁寧に答えてくださる。F先生は「手術(2年4か月前と4か月前、別の病院で)後のFollow-upは私がしてあげますよ!」と言ってくださった。患者を仕事上の「One of themと考える」のではなく、患者のことを「親身に=(With tender care)」心配するお医者さんがいらっしゃる病院は行くのが楽しみだ。CEAが全くの正常値に下がるまでご指導と玄米食で頑張りま~す。(彩の渦輪)


朝日に輝くハウスナンバー

2015-02-08 09:28:53 | 旅行記、多文化教育、国際

早朝散歩から戻ると黄金板金で表示した我が家の番地が朝日を受けて輝いている。大きい家は建てられなかったが好みの入母屋式、石州瓦と家番号の数字だけが目立つ。早春には砂埃の舞う三多摩の農道に囲まれた一角、周囲は畑だったが33年も経つと建売住宅が建ち出して人通りも増えた。自らの設計のこの家、建てた当初は和洋ちゃんぽん、ステンドグラス入りの目立つ建物、内部は機能性に長け、使い易く便利だと思って住んできた。風当り、砂埃当たり、泥棒あたりの環境で、JR駅に近いのが唯一の利点だが、2軒目の家として役立ってくれた。狭い客間ながら旅会とか七夕の会など、集会もよく開いてきた。子供たちも高校、大学生時代ともこの環境と利便性を楽しみ、娘は社会人として我々夫婦の不在中も活用したのだから意義はあったはず。20年間のアメリカ生活を経て帰国してからもなお便利に感じられる住居だ。午前、午後ともに日当りがよくシニアの暮らしには好都合、特に南側は眼下の四季が見晴らせて開放感がある。自然現象に耐えてあと10年存続してくれれば申し分ない。畑の中のこの環境について「掃き溜め地区」と形容した人もいるが、住めば都、偽のステンドグラスも剥げかけたが、朝日に輝くハウスナンバーのこの家がいたく気に入っている。(自悠人)


心温められた楽しいクラス、素敵な出会い

2015-02-05 10:37:43 | 旅行記、多文化教育、国際

1月末に近いある日、大学セミナーハウスにて教員免許証更新講習があり、また講師をさせて頂いた。幼保一体化とかで幼稚園や保育園の先生の参加もあり、それ以外にもいつものごとく小、中、高の先生とで80余名の受講者だった。異文化背景の生徒をクラスに抱える先生は今回少なかったようだが、スキットの演技はお上手、文化のカプセルにも大変興味を示され、質問や意見が多く、活発なクラスだった。日本全国から素敵な先生方が集まっておられるので講師が一方的に講義するのではなく、グループ学習(簡単に自己紹介し合い、テーマを持ってDiscussionし、議長がまとめて発表する)の時間を今回も設け、参加型クラスを喜んでいただけた。授業終了前の論文には魅力ある教師像、理想の教師像と共に、それに近づくよう頑張るぞ!という決意が多く語られていた。曰く、「3無=あわてない、当てにしない、諦めない、を胸に頑張ります」、「今日のスキットには考えさせられた。色んな題材を選び劇化して話し合いの場を作るのは面白いし、自分でも作れそうだ。挑戦したい」、「説得力のある意見表明が出来るよう頑張る」、「目標必達、頑張る」、「自己実現を目指すとともに、人のための共生活動を常に考えたい」、「今人生の岐路、40歳では遅いと思っていたのですが、先生(筆者)は52歳で渡米、大学院へ、そして110か国バックパックとは、目からウロコ。自分はまだこれからだと学びました」、「自信を持って意見表明できる人間になれるよう、そして共生活動も頑張ります」、等々。決意に燃える純真で素敵な先生たちとの出会いにほのぼの、心温められた。(彩の渦輪  先生によるスキット風景


後藤さんの旅立ちを悲しむ

2015-02-03 16:27:10 | 旅行記、多文化教育、国際

 My Blogへいつものごとくささやかな近況エッセイをUpしようとPCに向かったが、後藤さんが殺害されて以来何も手につかない。自分の小さな仕事を続けるにはあまりにも痛ましいニュースだった。後藤さんは知人ではないが、同胞として、一人の人間として、ご家族の悲しみを共有しようと、昨日早朝からこの2日間ずっとこの事件ばかり考えている。

 戦場の子ども達の被害を報道しようと、国が救えなかった日本人を助けようと、暴力を止めたいと、暴力の現場へ行き、シリアで拘束された後藤健二さん。その優しさに応えたのは非常な仕打ちだった。阿部首相の演説、「イスラム国と戦う国々を支援する」が軍事援助とも解される言い回しだった、というのがそもそものきっかけだ、と拘束当初のニュースで聞いたが、殺害後のニュースでも、国際政治に詳しい2、3の大学教授の解説にあった。何ということだ。後藤さんが痛まし過ぎる。心からご冥福を祈り、世界の子供たちや理不尽に虐げられた人々が平和に暮らせるよう、「非戦による地球の平和」を目指し、彼の意図を受け継がなければならない、と自覚した。(彩の渦輪)


日本近代化に貢献した工女たち II

2015-02-01 08:21:48 | 旅行記、多文化教育、国際

工女の日常を記した回想録の著者、横田(和田)英

 渋沢栄一のいとこで彼に強い影響力のあった尾高惇忠は富岡製糸場の建設に計画当初から関わったが、工女の応募者が無いので自分の長女、勇(ゆう)(当時14歳)を工女第1号とした。父の心中を察して決断した勇のあと、やっと同じ村の少女たちが応募し始め、その後全国から集まり、7月開業予定を10月から操業開始出来た、とパンフレットにある。工女たちはフランス人から機械製糸技術を学んだ。明治初期にあって官営期の工女たちの生活は医療費無料、日曜休日と労働条件が良く先進的だった。横田英(えい)は工女の日常を回想録に著している。富岡製糸場に就職した工女たちは技術の習得後故郷に戻り製糸場で指導者になり、日本の近代化に貢献した。官営工場はやがて民間に払い下げられたが115年間休まず操業、建物も創業当初のままだそうだ。

財布の紐緩む門前町  かりんとうとお饅頭がドッキングしたカリント饅頭は外がカリカリ、中は5種の餡、と甘党には堪らない美味しさ。こんにゃくで作ったお菓子もある。富岡製糸場は日本の近代化に貢献しただけでなく現在も故郷創生に大きく貢献している。余談だが、年配の読者には水戸黄門役初代で有名な東野英治郎(英心の父)を思い出していただこう。彼は現富岡市出身で名誉市民だ。富岡製糸場ご訪問の折には、こんにゃくパーク立ち寄りもお奨め。あらゆる種類、味付けのこんにゃくが食べ放題だ。身体の毒がこんにゃくに吸収、排泄され、健康増進間違いなし、だそうだ。帰路は足利フラワーパークで250万球のイルミネーション、光の花の庭を楽しんでください。アメリカのクリスマス前後の夜の公園に負けない規模です!(彩の渦輪)群馬ちゃんと