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<経産大臣指定伝統的工芸品> 宮崎・鹿児島 本場大島紬

2021-08-23 12:47:21 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「本場大島紬」

 Description / 特徴・産地

 本場大島紬とは?
 本場大島紬(ほんばおおしまつむぎ)は、鹿児島県奄美(あまみ)地方で作られている織物です。絹100%の先染め手織りの平織りで、手作業で締機(しめばた)や手機(てばた)で加工されます。
 本場大島紬の特徴は、シャリンバイと泥染による深く渋い風格と、繊細な絣模様です。着崩れせず着こむほどに肌に馴染むので、着心地の良さからも愛されてきました。しなやかで軽くシワにもなりにくく、奄美の自然から生まれた着る人に優しい織物です。
 製造工程は大きく分けて30以上あり、完成まで半年、またはそれ以上かかることもあります。図案作成から織りあげまでの工程一つ一つが大変複雑なため、熟練した高い技術が必要です。
 現在は伝統的なものだけでなく、色大島や白大島などのニューカラー、ニューデザインのものが開発されています。色柄や風合いのバリエーションを豊かにすることで、成人式や結婚式など様々な場面で着用されるようになりました。洋装分野やインテリアの製品化がされるなど、産地は新しい本場大島紬づくりに取り組んでいます。

 History / 歴史
 本場大島紬は7世紀頃に奄美(あまみ)で始まり、18世紀初期には産地が形成されました。鹿児島へも技法が伝わったと言われています。歴史は文献が少なく起源が定かではありません。1720年(享保5年)に薩摩藩が奄美島民に対して、紬着用禁止令を発令した史実が確認されています。
 鹿児島と沖縄の間に位置する奄美大島は、古くから南方との海上交通の要所であり、道の島とも呼ばれ、南北より様々な文化が流入しました。
 1850年(嘉永3年)~1855年(安政2年)に奄美に滞在した薩摩藩士の名越左源太が書いた「南島雑話」には、奄美の衣服や養蚕について絵図と共に記されています。亜熱帯性気候である奄美大島は、養蚕にも適した地であったため、織物が盛んになりました。
 1907年(明治40年)頃からは、締め機(しめばた)によって作成するようになり、世界でも類まれな経緯(たてよこ)の繊細な絣模様が完成しました。
第二次世界大戦では奄美、鹿児島共に多くを失いましたが、1950年(昭和25年)には資金が導入され生産が始まります。
 近年は円高不況やライフスタイルの変化によって、現在の生産数は最盛期の1割以下ともいわれていますが、価値ある島の名産として愛されています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/honbaoshimatsumugi/ より

 大自然の恵みが大島紬の原点である
 本場大島紬は、1300年の歴史と文化に育まれ、古来より高級絹織物として高く評価されてきた。その特長は、世界に類を見ない絣織りの技法と神秘的な“泥染め”にある。

 
 自然の恵みと本場大島紬
 奄美空港から名瀬市内まで車で約1時間。そこからさらに車で20分入った所に、本場大島紬、染色部門の伝統工芸士である、野崎松夫(のざきまつお)さんの工場はあった。 工場の回りには、蘇鉄(そてつ)などの南国特産の草木が茂り、いかにもその雰囲気は盛り上がってくる。染色工場の裏手には、30坪くらいの“泥田”がある。そこで若い修行中の染色職人さんが、熱心に泥染めをやっている最中だった。 工場内の驚くほど大きな煮釜の横で、野崎さんにお話しをうかがった。 「この泥染めは奄美大島でしかできんのです。技術や技法でなく、テーチ木<車輪梅(しゃりんばい)>もこの地方のもんやし、この奄美の泥やないと泥染めはできんとですよ。」 大島紬の命ともいうべき泥染めは、前段階でテーチ木染めが必要である。まずテーチ木の幹と根を細かく割り、大きな釜で14時間煮て、その汁で何十回も繰り返して糸を染めるのである。 テーチ木のタンニン酸によって糸は赤褐色に変わっていく。その赤褐色に染まった糸を今度は泥田で泥染めするのである。泥に含まれた鉄分がテーチ木のタンニン酸と化合し、糸は柔らかくこなされ、大島紬独特の渋い黒の色調に染め上がる。 「あの南国の植物のソテツがあるでしょ。ソテツは漢字で“蘇鉄”。ソテツが自生している土は、鉄分が豊富で泥染めに向いているんですよ。それと奄美の泥は、粒子が丸くとても細やかなので、紬の糸を傷つけず、やさしく染め上げることができるんですよ。」と野崎さんは胸を張る。 野崎さんの横では、テーチ木を煎じる大きな釜が煮立っている。その燃料も実は、煎じ終った後のテーチ木なのである。さらに、残った灰は、藍染め用の藍ガメに入れられる。そして、最後に灰は藍とともに、肥料としてまかれ、奄美の大自然に還る。まさに大自然の中で育まれ、自然に還っていく独特の染色技法だ。 野崎さんは、「本当に奄美の自然が好きだし、自然とともに生活してきたんだ。自然にはいつも教えられることばかりやな。」と笑った。この自然に対する考え方、姿勢は、奄美大島の人たちが共通して持っている概念のようだ。

 野崎さんの“染めの哲学”
 「わしは、30年間泥染めをやってきたけど、これは難しいねえ。原料のテーチ木が成長して使えるようになるまで30年かかる。わしが泥染めを始めた頃に生まれたテーチ木が、やっと今頃使えるようになる。そのテーチ木も、山の中で成長したものか、海風に吹かれて成長したものかで、染め方も変わってくる。その都度、自然の恵みに人間が合わせていかんと、いい染めはできんのですよ。」 工場の裏山でも、天然のテーチ木が採れるというお話しだったので、ぜひ見たいというお願いをしたのだが、野崎さんは破顔一笑「やめとき、ハブにかまれるよ。」 泥染めは、腰まで泥田につかり、何回も何回も染めを繰り返す、過酷な肉体労働である。  「夏の暑さはそりゃ、つらいですわ。奄美の夏はとにかく暑い。泥もお湯のようじゃし、太陽の光はきついし・・。けど、わしらはこの自然の恵みで生活させてもらっちょるわけやから、文句は言えんな。」あくまで、大自然に対して謙虚な気持ちを持ち続ける。 『あなたにとって“泥染め”とはなんですか』という質問に対して野崎さんは、ピンと背筋を伸ばし、こう答えてくれた。「世界に誇れる“大島紬”の生産に携わっておられることがうれしいですね。特に染めの重要性は高いし、紬がご評価いただくのも染めが中心になります。そんな奄美独特のこの仕事を続けていることに、わしゃ誇りを持っています。長いことやっててもそんなに満足のいく染めができたことは少ないですが、思い通りにいった時は本当に嬉しいもんです。」 「着物文化は日本文化であり、永遠にこの伝統は、現代の日本人として継承していく義務があると思うんですよ。若い人ももっと日本文化に誇りを持ってほしいですな。うちでは、泥染めの実体験もできるようにしています。次の世代に泥染めの伝統を体験してもらい、継承してもらいたい。それがわしの夢です。」

 職人プロフィール

 野崎松夫 (のざきまつお)

 昭和16年生まれ。 先代(父親)の跡を継ぎ、泥染めの世界へ入って30余年。 現在は3代目(息子さん)とともに伝統の技法を守り続ける。

 
 こぼれ話

 ネリヤカナヤの神と共に唄い踊る島人たち

 奄美の人々は海の彼方にネリヤカナヤ(神の国)があると信じ、その暮らしは太陰暦で営まれていました。奄美、沖縄の琉球文化に特徴的に見られる「ユタ」「ノロ」と言われる人々の存在も忘れてはならないでしょう。シャーマン的な働きや身の上の相談役として、今なお、島人の支持を得ています。 奄美の各集落には太陰暦により「ユタ」「ノロ」が、つかさどる祭祀や習慣が根強く残っています。古来、島人の暮らしは自然の懐に抱かれ、海の幸に恵まれたものだったのです。太陽や月とともに季節がめぐり、農作業や祭りが行われました。 旧暦の8月には、収穫の感謝と豊作を祈る祭りが多く、なかでも「ショッチョガマ」は400年の歴史を持つ、重要指定文化財指定の行事。早朝、山腹のわら屋根の上で、集落の男衆が祭詞を唱え、屋根を崩す勇壮な祭りです。夜になると生命感あふれる踊りと唄掛けの世界が広がります。 さとうきび地獄といわれた薩摩藩の搾取の時代から、人々は唄うことで労働の苦しみを、紛らわせてきました。唄のそばには必ず踊りの輪があります。そして、島独特の伝統料理と、サトウキビから作った焼酎さえあれば、夜がふけることも忘れて、島人たちは大いに笑い、語り合うのです。

 旧暦の8月に行われる、収穫の感謝と豊作を祈る祭りである「ショッチョガマ」
点と線の精緻な結晶、大島紬
 本場大島紬の命は、絣の細やかさにあり、すべての柄は絣の集合体で表現される。熟練した織工が、たて糸とよこ糸の絣模様が正しく交叉するよう、7~8cm織り進むごとに細い針の先で絣を一本一本丹念に正しく揃えていく。織工には細心の注意と根気が必要とされ、一反織り上げるのに、40日以上の日数がかかる。

 
 はるか南島から伝えられた絣の技は、鹿児島で大きく花開いた
 “大島紬は二度織られる”と言われる。絣文様を染めるのに一度織締され、その後機織りされるためだ。締機は絣糸を綿糸で固く織締するので、織機より大きく、そして強い力を要する。そのため主に男性の仕事であった。この工程での画期的な技法が、明治40年鹿児島で開発され、絣の正確さと生産能率の向上に大きく貢献した。 もっと古く江戸時代、薩摩藩の特産品として手厚い保護を受け、生産を奨励された歴史もある。その後大島紬の人気は全国的となり、奄美大島から移住してきた人たちを中心に、鹿児島本土でも生産されるようになったのだ。 本場大島紬の個性は、“締機(しめばた)による力と技”、“泥染めによる独特の渋み”、“点と線の精緻な結晶、絣模様”であると言える。 今回は、鹿児島地区本場大島紬伝統工芸士会会長で、ご本人も伝統工芸士でもある、菱沼彰(ひしぬまあきら)さんにお話をうかがった。 菱沼さんは「どっからおじゃしたと?(どこから来たんですか)」と明るい笑顔と薩摩弁で迎えてくれた。
 上質の絹糸は本場大島紬の生命である
 「ここ鹿児島で大島紬が盛んになったのは、他にも理由があるのですよ。絹糸の質に当時から職人がこだわってきたのです。素材の良さが光っていないと、本物として歴史の風雪には耐えられんでしょう。」と菱沼さん。大島紬と言うと、どうしても染めや織の技法に焦点がいってしまいがちだが、『着たらわかる』本物を作るためには、絶対視しなくてはいけないと言い切る。 ただでさえ、大変な手間と時間のかかる大島紬だが、素材へのこだわりはゆるぎなく、ご自身でも当地でシルクの研究会を主催しているほど、絹糸にはこだわっている。 「人間も着物もいっしょですよ。本物は素材で決まる。長い工程を経てできあがる大島紬の原料糸には、特に厳しく選定しています。理想の絹糸で大島紬が織れるようになると、さすがに染め上がりがすばらしく、絣模様の色が冴えて、気品が出てきます。」と菱沼さんは力強く語ってくれた。
 「職人の世界は、40年やっても鼻タレやっど」
 「この世界に入って40年になりますが、いや、まだまだ鼻タレ小僧ですよ。この前も、うちの先代からお世話になっている問屋の大奥さんに『あんたもようやく先代の肩くらいまでは成長したかね~』と言われました。60才近くにもなって、そんなことです。まあ先代は、“白大島”を開発した腕もアイデアもあった人じゃったから、逆にその言葉は嬉しかったですよ。」と菱沼さんは笑顔で語った。 「大島紬は、とにかく奥が深い。やってもやっても先が見えん。自分で満足したことは一度もないですよ。ただここまで続けてこられたのは、自分の作った大島紬をわざわざ求めてくださるお客様や問屋さんに、喜んでもらおうという願望だけかな。うん、わしはいつも飢えとるんですよ。常にいいものを作りたい、新しいものをつくりたいとね。」 「妥協はできんですよ。好きですしね、この仕事が。男が好きな仕事をして、笑われたらいかんでしょ。だから、一所懸命やるんですよ。」と“薩摩男子の職人”は迫力ある声で語ってくれた。
 「見つめなさい」
 そんな菱沼さんが、遠くを見ながら、師匠である先代の思い出を語ってくれた。「わしが先代から言われて、今でも忘れられない言葉があるのですよ。それは『見つめなさい』という言葉です。美術でも、人間でも、お饅頭でも何でも『見つめなさい』ということです。つまり、物事の表面だけを見るのではなくて、自分の知識と感性のすべてを使って分析しろ、ということなのです。この年になってやっとその意味が少しわかってきましたな。どの道でももの作りに従事する人で、一流の人が言うことは、ここに尽きるのではないかなあ。だからわしは死ぬまで、大島紬を見つめ続けていくつもりですよ。」 と語ってくれた菱沼さんの向こうから、織機の「トントン」という音が響いていた。
 

 職人プロフィール

 菱沼彰 (ひしぬまあきら)

 【南風(なんぷう)】—本場大島紬伝統工芸士。 初代【南風】の跡を継ぎ、25年。 2代目南風として、その作品のファンは数多い。

 薩摩隼人。菱沼彰さん
こぼれ話

本場大島紬の“染め”の分類

 1.泥染大島紬 (どろぞめおおしまつむぎ) 伝統的なテーチ木と泥土染め方法で染色した糸を用いて織り上げられた、高級な紬です。光沢を抑えた渋みの黒色としなやかな感触が豊かな気品を醸し出します。泥染地に白絣が茶色がかって見えることから、茶泥大島とも呼ばれています。 2.泥藍大島紬(どろあいおおしまつむぎ) 植物藍で先染めした糸を絣むしろにして、それをテーチ木と泥染めで染色したものです。泥染よりさらに深みと艶がました黒地に、藍絣の調和がシックで魅力的に映ります。 3.植物染大島紬 (しょくぶつぞめおおしまつむぎ) テーチ木、藍以外の草や木などの植物から抽出された天然染料で染められたものです。古典的な染色法に、改善を重ねて染めあげたもので、微妙やさしい色調が見直され、彩りも多彩な大島です。 4.色大島紬(いろおおしまつむぎ) 合成染料を使用して、色絣模様に染色したもので、多彩な色調と自由なグラディエーションは、大島紬の無限の可能性を広げました。色使いが自由なので、モダンなものや大胆なデザインも豊富にできます。 5.白大島紬(しろおおしまつむぎ) 白、あるいは淡地色の大島紬です。春の終わり、秋の初めなど単(ひとえ)衣仕立てにしても使えます。明るくお洒落な感覚が好評です。

 


 伝統とモダンの融合、都城 本場大島紬
 宮崎県都城市で作られる本場大島紬は、古来から伝わる伝統技法だけにこだわらず、染めにおいても、自然の草木を使った“草木染め”などを取り入れている。デザイン、販売方法などにも、進取の気鋭が随所に見られる。

 
 伝統と血筋と革新
 霧島連山の麓、都城市の閑静な住宅街の一角に、明るくいかにも現代的な大島紬の展示ギャラリーがある。そこでお話をうかがった都城絹織物事業協同組合理事長の谷口邦彦さんは、自ら大島紬のデザインから織り、品質管理までをする、ダンディーな職人であった。 「もともとここ都城で大島紬の生産が始まったのは、奄美大島で伝統技法を身につけた人々が、よりよい環境、素材、市場を求めて都城にその新天地を見つけたという歴史があります。ただ、その源流は、閉め機(しめばた)工法を開発し、本場大島紬の製造工程を一新、その発展に多大な貢献をした『永江伊栄温(ながえいえおん)』。それがうちの祖先ですから、本場大島紬の本流と言ってもいいかもしれませんね。」 と谷口さんは、温和な口調で語り始めてくれた。 「その家系から、今度は奄美大島で初めて大島紬の撚糸工場を開いた人が、うちの祖父にあたるんですよ。その後も、次々と新しい技法を取り入れ、大島紬に堅牢度や色の深みを与える手法を開発したり、大島特有の“てり”を抑えた渋い風合いの色大島を開発したのも、ここ都城です。つまり私の個人的な意見ですが、“伝統”というものは、“革新・改良”と表裏一体のものだということです。」 その思想は、都城で作られる本場大島紬のすべてを網羅した、現代的なギャラリーへと繋がるのである。
 若い感性を取り入れる
 奥様の啓子さんは、大島紬のよく似合う女性である。啓子さんは「日本の着物文化は年配の人だけのものだという考え方が、この伝統産業を衰退させています。もっと、身近に、気軽に“着物”を考えて欲しいですね。特に大島紬は“おしゃれ着”なのです。肩ひじ張らずに、日本人として着物を着るという文化を広めていきたいです。」と語る。 ここでは、大島紬の織物工房がすぐそばに併設されている。新しいデザインや色目の商品を開発し、定期的にギャラリーで展示会、発表会を開催している。見学に来た若い人たちが、新しい着物文化に触れ、たちまちその魅力に惹かれるのである。 実際そういった形で、本場大島紬の織り技術を学んでいる20才代の若い“紬職人”も多い。その中若手紬職人のひとり、森さんにお話しをうかがった。 「きっかけは、たまたまここへ遊びに来たときに、織物工房を見学させてもらったのです。工房の中では、みなさん一所懸命に織機に向かっていました。もともと洋服は大好きだったんですけど、一本の糸が何十工程も経て、素敵な着物に変身していくのを目にして、すごく感動しました。私もやってみたいと思い、それから工房で勉強させてもらい始めたのです。まだ始めたばかりなので、わからないことばかりなのですが・・・。大島紬は、織物の中でも特に絣の構成も緻密で、高度な技術が求められます。難しいですね。天然素材ですので、その日の気温や湿度にも影響されますし。その日その日で力の入れ具合い、糸の運び方も変わってくるのです。だからこそ、やりがいも感じています。もともと、もの作りが好きだったこともありますが、ひとつの物をていねいに作り上げていくことは、とても楽しいですよ。もちろん私の一生の仕事として考えています。」 「古くからの伝統技法を学んでいることで、精神的にも少しだけ成長したような気がします。『伝統技法を未来に伝える』という大切な仕事を任せられている、という実感がいつもあります。しっかりしなくっちゃって。」と明るく答えてくれた森さん。「まだまだ技術的には未熟ですが、私の夢は、自分の織った大島紬を着て、街を歩くこと。」とはにかんだ森さんの顔は、職人の顔からひとりの女性の顔に変わったいた。ここ都城大島紬の未来は明るい。
  
 草木染め
 元来大島紬は、いろいろな植物で染められていた。ハゼ、車輪梅、さといもがら、藍など染料として多く用いられてきたのである。その後、色落ち止めなどの改良で、堅牢で、色鮮やかな染めができるようになった。特に南九州は、染料の原料は豊富である。霧島連山の麓で、おいしい空気と水と豊穣な土地が、梅、椎、やまもも、矢車、よもぎ、黄ばく、五倍子などの植物を優しく強く育んでくれた。そんな大自然の恵みを生かした植物染め大島紬は、豊かなやさしい色合いで、今日も女性の心を優しく彩っているのである。
 
 職人プロフィール

 谷口邦彦 (たにぐちくにひこ)

 都城絹織物事業協同組合理事長。 現在は主に大島紬のデザインと総合的な管理を主としている。 織物のかたわら、ジャズピアノも弾く趣味人でもある。 囲碁、将棋ともに5段の腕前。

 こぼれ話

 ウェルネス都城

 都城市は、伝統産業はもちろん、古来からの歴史があり、『ウェルネス都城』の宣言をしています。人が元気・まちが元気・自然が元気をキャッチフレーズに、個人の身体的健康から、精神的健康、人間性をも含んだ概念で、平成10年にこのことを宣言しています。今回はその『ウェルネス都城』が自慢できる、観光名所をご紹介いたします。 関之尾(せきのお)公園は、緑したたる関之尾は、大自然の力が作り出した造形美であふれる天然の美術館のようです。特に、世界最大級を誇る甌穴(おうけつ)群が見物。さらにしぶきを上げる3つの滝。四季折々の表情を見せてくれる素晴らしい景観は、大地の力強さと自然のやさしさをたたえています。日本の滝100選にも選ばれた滝は、幅40メートル、高さ18メートルにも及ぶ大滝です。

*https://kougeihin.jp/craft/0125/  より


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