2022年10月16日 18:40 近鉄 喜志駅前東ロータリー
7時ごろから喜志七郷の内、6つの地区の地車が集結するパレード(連合曳き)が行われました。(「尺度」は羽曳野市、平は不参加)
喜志地区は江戸時代に石高二千石近くの大きな村で「喜志五郷」と呼ばれ、庄屋さんが5人、お寺が6寺、牛が38匹もいるとても大きな村でした。(明和六年(1769)喜志村様子明細帳より)
当時は大深(おおけ=現在の喜志町)、桜井、川面(かわづら)、宮、平の村で、明治以降は大深から分村した木戸山、平村から移り住んだ喜志新家を加えて「喜志七郷」と呼ばれています。
このような粟ケ池中心に水利配分で仲良く結ばれた地縁的な結合の村を「惣村(そうそん)」と言います。そしてその関係は現在も続いており、お互い地区同士仲の良いのが喜志地区です。
【川面】江戸時代剣先船が就航し、船着場があった川面浜。
20石積みの底が平らな物資運搬専用の川船は、1回で2.5~3トンも荷物を積めました。
俗謡で「支子(きし)の川面 小在所なれど 浦にどんとと 船がつく」とうたわれた川面です。
川面町のだんじりの土呂幕にも書かれています。
【木戸山】
町の中心にある極楽寺の門前にいたはる役行者さまは豪快に笑ったはります。行者さまにお参りすれば、病気が治ったり、災難に遭わないと言い伝えられています。
灯りがとてもきれいなブルーライト木戸山。
【喜志新家】
江戸の初め、元和年間に開拓され、平から新たに移り住んだのが村の始まりで、「新家(しんけ)」と呼ばれています。
同じ冨田林市の旧錦部(にしきべ)郡新家(岩井村)と区別するため、「喜志新家」と呼ばれています。
楠公さん一色の彫り物の新調だんじり(2019年入魂)に大楠公・小楠公さんのエピソードが20場面も彫られています。
【宮】喜志の宮のある宮町。中世 戦国期の文書(禁制・定書)には「下水分神境」「岸寺内」「下水分寺内」として出てきます。
喜志の宮には戦国大名らが書いた禁制・定書が7通も残っています。おそらく当時は神社を中心とした防御的・自衛的な町づくりが進められていたのかもしれません。
宮ガールズはお揃いのグリーンの腹巻き
【櫻井】
ヒーロー加賀屋(桜井甚兵衛)の故郷。南河内地方の粘り強い性格で、干拓で多くの土地を新田開発した加賀屋甚兵衛。あまりにも大きな功績で幕府から苗字・帯刀を許されました。そしてつけた苗字が「桜井」、生まれ育った故郷の村の名前でした。
《リバイバル・アーカイブス》甚兵衛(じんべい)ものがたり 2015.5.29
レインボーカラーの提灯が美しい桜井のだんじり。
【喜志】=大深
南北、東西の重要な街道、東高野街道といせ道が交差する街道近くにある大深村。古く弥生時代から人々が住んだ住みやすい場所。サヌカイト打製石器の巨大な工房がそれを物語ります。
今も30分で手のひらいっぱいの石器片(石核)が拾える場所もあります。
集落の一段上の河岸段丘面の粟ケ池の下流部は、富田林市では一番肥沃な田んぼのひとつ。奈良時代までには粟ケ池が築造され、全面もう田んぼでした。一町(109m)四方の碁盤の目状の正方位条里がそれを物語っています。
クライマックス~各町の地車と曳き手が集います。
最後はあいさつして帰ります。
仲の良い喜志地区のだんじり。
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喜志のみやなど(富田林市)のだんじり祭り2018 2018.10.23撮影:10月20日、21日
《リバイバル・アーカイブス》喜志 川面浜の剣先船 1 2015.6.24.
《リバイバル・アーカイブス》喜志 川面浜の剣先船 2 2015.6.25.
《リバイバル・アーカイブス》喜志 川面浜の剣先船 3 2015.6.26
参考文献:学校創立百周年記念 郷土のすがた 喜志 S48.2 富田林市立喜志小学校
富田林市史 第四巻(史料編) S47.3 富田林市役所
写真撮影:2022年10月16日
2022年10月29日(HN:アブラコウモリH )
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