2023年5月5日 12:19 富田林市加太 智福山 龍雲寺(りょううんじ)(黄檗宗)
「本日午後1時より、ここで特別な催しがおこなわれますよ。私は開梛(かいぱん)と言います。」
時を報ずるための魚板で「木魚」の原形。
全体像はこんなです。これ、黄檗宗(おうばくしゅう)ではよく見かけますね。
本山萬福寺や堺市美原区今井の法雲禅寺にもあります。
雲版(うんぱん)といいます。青銅製の鐘で雲形をしているので、この名があるそうです。
黄檗宗は臨済宗・曹洞宗とならぶ日本三大禅宗のひとつ。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(りゅうき)(1592 - 1673年)が開きました。本山は宇治の黄檗山萬福寺です。
本日の特別な催しは「ウエサカ祭」、お釈迦様のお祭りです。
龍雲寺は、狭山藩(大阪狭山市)1万石、北条家(小田原北条氏の子孫)の菩提寺として、享保九年(1724)、藩主 北条氏朝の援助のもと、独園和尚が黄檗宗として河内長野市石見川地区より移し開山しました。
勢いのある字で「龍雲」と書かれています。
龍雲寺は富田林市に3つもある黄檗宗のお寺の一つ。
ほかに、養楽寺 甲田二丁目(北甲田)と慈眼寺(じげんじ)別井三丁目(南別井)があります。
きれいに飾り付けされています。
スリランカ、タイなどの南方の仏教国では、お釈迦さまのお生まれになった日、さとりを開かれた日、亡くなられた日はいずれもインド暦のウエサカ月(4月)の満月の日(15日)であると伝えられ、盛大なお祭り=「ウエサカ祭」が行なわれています。
龍雲寺では古くから行ってきた涅槃(ねはん)会(だんごまき)を「ウエサカ祭」と改め、「楽しみながらお釈迦さまの教えにふれ、みな共に生きよう」をねらいとして行われています。(ウエサカ祭パンフレットから)
今回最初は富田林市の五軒家在住の方で、ベトナム出身の奥様をもつご夫婦の「日本とベトナムの似ているところ、違うところ」のお話でした。
中国に近く、日本と同じく漢字を使う文化圏であること。首都のハノイは漢字で表わすと「河内」と書くそうです。日本との関係も深く、遣唐使まで遡ることができること。バイクが多く、ホンダやヤマハのバイクがたくさん走っていることなど興味深いお話をいただきました。
そして、ベトナムの民族舞踊グループのみなさんによる「故郷のノンラー(三角形の帽子の意)ダンス」。
やわらかい感じの踊りで、すこし日本舞踊にも似たアジアの踊りといった感じです。白のアオザイが印象的ですね。
ベトナムの方は、富田林市に在住の外国人中で一番多く800人以上が住んでおられるということでした。
多くの参加者の中でご住職のお話がありました。
祭壇に向かわれ、お祈りされます。
〈画面をクリックすると拡大します〉
お釈迦様の涅槃図(お釈迦さまが入滅(お亡くなりになる事)された時の様子を描いたもの)
沙羅双樹の木の元で亡くなられたのですが、右の4本が枯れ、左の4本が緑の葉を付けています。これは、お釈迦様がこの世の命を終えたことを悲しんで白く枯れたということ。しかし、肉体は滅んでもその教えは枯れることなく受け継がれていくことを示しているといわれます。
絵の上部の真ん中には満月(陰暦15日、十五夜であることを意味します)、その右手には天界にいるお釈迦さまの母・摩耶夫人(マーヤ)が描かれている。摩耶夫人は釈迦を産んだ7日後に亡くなったと言われ、釈迦入滅に際して天から不老長寿の薬を与えようと赤い薬袋を投げましたが、釈迦の枕元の木に引っかかってしまった。(この行為から、薬を与える=投薬という言葉が生まれたとも言われています。)
よく見るとお弟子さんたちや菩薩様が悲しんでいます。
お釈迦様は北枕で、お顔は西を向かれています。
多くの動物たちも嘆き悲しんでいます。
先ほどのひっかかった薬袋をなんとかそれを取ろうと一匹のネズミがするすると沙羅の木に登り、枝をかみ切らんとかじり始めました。しかし、それを見た猫がネズミを追い払ってしまい、結局薬袋は届くことなくお釈迦様はお亡くなりになってしまったとされています。
隆琦(おもき)宗徹ご住職の講話。ご高齢ですがお元気でいろいろな活動をされているとお聞きします。
苦行釈迦のお姿。ベトナムには苦行釈迦を祀っている寺院が多いそうですが、日本では少なくご住職が仏像製作会社に依頼したところ、「こんな仏像ははじめて(の依頼)だ」と驚かれたそうです。
このあと、ご住職の説明で「お釈迦様めぐり」をさせていただきました。
境内で巡れるよう巡拝していく事ができます。
〈誕生〉約2500年前 インドの北部(現在のネパール)の釈迦(シャーキャ)族の王子として生まれます。
お釈迦様がお生まれたなった時に、「天上天下唯我独尊」と言われたという逸話があります。
直訳すると「この空間において尊い者は私一人である」になりますが、意訳すれば「生きとし生けるものすべてが尊い」の意。すなわち、「すべての生き物がこの世の中で大切な役割を持っていて、それぞれが尊い」と言われています。
〈出家〉29歳の時、王子としての立場や地位を捨て、妻や息子からも離れ、全てのものを捨てて、旅立つことになりました。
〈苦行〉すべての人が直面する「生きること・老いること・病気になること・死ぬこと」。この4つの苦しみから人々を解放できないかという悩みがありました。自ら答えを見つけようと、6年間過酷な修行を自らに課し続けます。ところが、体が極限までやせ細り、骨と皮だけの姿になるまで苦行に励んでもなお、その苦しみを解決することはできませんでした。
苦行を続けたお釈迦様の肉体は限界に到達。死線をさまよったお釈迦様は、少女スジャータによって助けられ、一命をとりとめます。お釈迦様が悟りを開く直前に乳がゆを供養し命を救いました。
なお、コーヒーフレッシュで有名なスジャータめいらく(株)の商品名の由来は、お釈迦様に乳がゆを差し上げた少女の名「スジャータ」から来ています。
その後のお釈迦様は苦行をやめ、菩提樹の下で瞑想をするようになります。その姿は周囲から理解されませんでしたが、来る日も来る日も瞑想を続けました。そして、城を出て6年が経った12月8日にお釈迦様はついに悟りを開いたのです。このとき、お釈迦様は35歳になっていました。
「南無釈迦牟尼仏」の読みは「なむしゃかむにぶつ」。意味は「私は釈迦牟尼仏=お釈迦様に帰依します」。「南無釈迦牟尼仏」を唱える宗派は天台宗、曹洞宗、黄檗宗、臨済宗など。
〈成道〉35歳
そして「極端な生活は極端な考え・心を生み出してしまう」と改めて気づきました。これをきっかけに、ついに苦から解き放たれた"さとり"の境地に達し、仏陀(=さとりを開いた人の意)となったのです。
この"さとり"の内容をかつて一緒に修行した5人の僧侶に伝えました。
〈説法〉45年間 ここで法輪を回します。法輪は仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、卍と共に仏教のシンボルとされてきました。
お釈迦様は80歳で亡くなるまでの約45年間、仏教の開祖として人々に教えを説き続けました。つまり、真理を説き続け、多くの人々を進むべき道へと導いたのです。その教えは年を経るにしたがって、誰にでもわかりやすいように、また、実践的になっていったと言われています。
そして堂内の涅槃図に至り、「お釈迦様めぐり」は終わります。
背後の案内板は「生きているだけで丸儲け 明石家さんま」。
「昭和60年(1985)8月12日 日本航空123便墜落事故」
乗員乗客520名が亡くなられた痛ましい航空事故。歌手の坂本九をはじめ、多くの著名人がお亡くなりになりました。
この航空機に、さんまさんも乗る予定でした。でも、「オレたちひょうきん族」の収録が早く終わり、日本航空123便をキャンセル。一つ前の飛行機に搭乗しました。
偶然にも助かった命。こんな経験から、座右の銘「人生、生きているだけで丸儲け」があります。
さんまさんは何事も手を抜かず一生懸命やる、そのことに生きがいを見出されているかと思います。
玄奘(げんじょう)三蔵法師 唐時代の実在の僧。629年にシルクロードで印度に向かい、ナーランダ僧院などで巡礼や仏教研究を行って、645年に経典657部や仏像などを持って帰還。仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した法師。
やなせ たかしさん作詞の「手のひらに太陽を」...これでは、熱すぎるので...訂正、「手のひらを太陽に」をみんなで歌っています。
「みみずだって、おけらだって、あめんぼだって、
みんなみんな 生きているんだ、友だちなんだ」
すなわち、「すべての生き物がこの世の中で大切な役割を持っていて、それぞれが尊い」ということ。「天上天下唯我独尊」。
なお、「ウエサカ祭」をご紹介いただいた「さやか観光会」の谷上様、および楽しくためになるお祭りを開催していただいた龍雲寺ご住職、加太三友会をはじめ地元の方々に感謝致します。
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