【錦渓山 極楽寺 】 2014.2.26.
融通念仏宗 中本山 錦渓山極楽寺です。極楽寺は、河内長野市古野町の旧東高野街道沿いにあるお寺で、その由緒は、聖徳太子が推古天皇の病気平癒を願われ、この地の杉の根元に湧く霊水を汲んで差し上げるとたちまち平癒された。そして、聖徳太子が薬師如来を刻まれ、本尊とされたのが極楽寺のはじまりとされています。その後一旦衰退するも、元享元年(1321年)に融通念仏宗の法明上人によって再興されました。
融通念仏宗(大念仏宗)とは、平安時代後期に良忍が創めた、日本十三宗の一つ。浄土宗や浄土真宗の鎌倉仏教より先に布教されました。
総本山は、大阪市平野区の大念仏寺で、中本山として極楽寺をはじめ、来迎寺(松原市丹南)、大念寺(南河内郡河南町大ケ塚)、法明寺(大阪市平野区喜連)、良明寺(生駒郡平群町)、高安寺(八尾市)があります。布教された地域は大阪(河内・摂津)、奈良が中心になります。
近年、極楽寺では「河内の大仏さん」が建立されました。
境内本堂右手に、まとまって「西国巡礼三十三度満願供養塔」が祀られています。
これは、西国三十三箇所巡礼行者さんの供養塔です。
この西国巡礼行者というのは、江戸前期から昭和40年代くらいまで、「御背駄(おせた)」という背負子を背負い、その中に西国三十三箇所の観音霊場札所のご本尊のミニチュアを入れて、信者の家で御開帳しながら、年に2回位のペースで西国三十三箇所の札所を、なんと三十三回もまわり続ける職業としての行者さんのことです。現在は完全に途絶えてしまいました。御背駄については、嬉地区に4個、富田林市富田林町の浄谷寺に5基現存しています。もっと古い時代からという説も ありますが、供養塔として現存しているのはほぼこの時期のものです。
また、御背駄はそれを所持している組織(お寺が多い)があって、行者さんに有料で貸出します。その組織は畿内中心に、6組織ほどあり、大仏組・住吉組・紀三井寺組・葉室組(太子町)・富田林組(浄谷寺)・嬉組が確認されています。
供養塔と言っても、上記の通り霊場を33回回り、満願しなければ、施主がついて供養塔を建ててもらえません。行者さんは、相当の気力と体力が必要であったと思われます。
現在、供養塔は50基ほど残っており、南河内地方に三十数基、現存しているといわれています。
また、嬉組の供養塔は24基あるといわれています。
確認できるものは、以下とおりです。
行者名 年号 施主・世話人 組名
・浄心 宝暦13(1763) 嬉組 法界塔、願主出身東野村
・隨教成啓 寛政13(1801) 上野又兵衛 嬉組 御法意伝来御室御所参入先達五人行者
・覚山法師 明治33年(1900) 嬉組 (石塔)
・ 明治36年(1903) 嬉組
・東尾戒浄 大正3年(1914) 彼方村字嬉 5名連記、同村字横山2名連記 ご法意伝来
以上、5基の嬉組の供養塔があります。
この宝篋印塔は大正3年の世話人7名連記のものです。
大正3年の満願供養塔
当時の嬉組の五人行者の一人、東尾戒浄法師の満願供養のため、建てられました。
正保五年(1648)の文字が見えます。これは、同じ形の宝篋印塔(ほうぎょういんとう)で、同じ場所にありますが、「西国巡礼」の表記がないので、西国巡礼の満願塔ではないようです。江戸前期の古いものです。
歴代の住職のお墓です。おもにお坊さんの墓につかわれる卵形の「卵塔」、そして「宝篋印塔」が見えます。
卵塔の向こう側(北東部)は、金胎寺山(296m)=富田林市域最高峰。
最近富田林市嬉(うれし)地区より、嬉城山クラブさんのボランティアによる登山ルート整備のおかげで、頂上まで登ることができるようになりました。
「三好先生墓」
「先生墓」の場合、寺子屋の先生の墓(筆子塚)か何かお稽古ごとの先生の墓かどちらかの場合が多いのですが、墓標正面に「社中建之」とあるので、同門仲間の建之であることがわかります
銘がよく読めないのですが、花崗岩製の大きな板碑です。
よく見ると「正徳三」(1713)の銘が入っており、 かなり古いものです。
「一石五輪塔」
寛保年間(1741~1744)の江戸中期の一石五輪塔です。
これはよく解らないのですが、基礎部分に「七面・・・」と彫りこんでありました。
こんな感じです。
いろんな墓碑があるものですね。
撮影:2014.2.26. 河内長野市古野 融通念仏宗 錦渓山 極楽寺にて
*お墓の写真は、貴重な歴史的文化財として撮影させていただきました。
《参考文献》
・玉城 幸男 江戸時代の西国巡礼三十三度行者について―嬉組・富田林組を中心に 1990
・中川 正博 嬉・横山の歴史と嬉御背駄について 1989
2014.3.7. (HN:アブラコウモリH )
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