富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉おもしろ水路

2015年01月19日 | おもしろ画像

〈リバイバル・アーカイブス〉2024.2.19~3.4

原本:2015年1月19日 

 富田林市甲田2丁目 荒前井路の支流

旧国道170号線を逆サイフォンでくぐる水路(井路)。田んぼに用水を配る水路です。

 

富田林市錦ケ丘町1−15 府立河南高校東側

荒前井路と溜池からの水路が→←方向に合流します。荒前井路からの水量の方が通常多いので、段差をつけて逆流を防いでいます。この用水は ↓方向に流れ、下流部の条里制起源の田んぼを潤します。

 

 富田林市中野町1丁目 粟ケ池南側

ここも両側から用水が合流します。どちらも荒前・深溝井堰からの用水ですが←の水は井路から直接分流してきた用水で、→の用水は次の地図にあるように一旦旧集落まで流れ、360度方向転換してきて戻ってきた用水です。おもしろい流れ方をします。

 

 粟ケ池の上手は、1m程土地が低く、水は東側に流れます。よって粟ケ池に上手(南側)から直接水を入れることができません。粟ケ池の水は、西側の深溝井路から取水しているのですが、導入水路が西側を平行に流れ、喜志の宮の参道のところで急に直角に曲がり、池の下手から入ります。

粟ケ池の水は自然の川から流入したものでなく、何キロも上流の荒前井堰(河内長野市向野町)と深溝(あらまえ)井堰(富田林市錦織東3丁目)からそれぞれ取水し途中で合流して流れてきたものなのです。人工のため池と水路なんですね。

粟ケ池は、中野北遺跡の発掘で、粟ケ池に関連する水路から奈良時代の遺物が出て来ているので奈良時代に完成していたと思われます。よって、それに直接用水を供給している深溝井堰および井路は同時期に成立したとしか思えない。周りに条里地割がありますが、これも含めて大きな指導力で完成させたと思われます。

 

富田林市新家2丁目

国道309号線をまたぐ荒前井路

 

 富田林市錦織南2丁目

細谷川をまたぐ荒前井路(筧、掛樋、かけひ)

 

 富田林市甘南備(かんなび) 

井路が道路を渡り、一番高い田んぼを潤します。

*ピンボケですみません。

 

 

 

 石川左岸の田んぼを潤す「荒前井堰」(河内長野市向野町)

粟ケ池とは8km離れています。ここからがスタート。

 

 石川左岸の田んぼを潤す「深溝(ふこうど)井堰」(富田林市錦織東3丁目)

別々に取水し、富田林市甲田1丁目付近で合流し、粟ケ池へと流入します。と粟ケ池とは4.5km離れています。 

 

 粟ケ池 富田林市粟ヶ池町

日本書紀の仁徳天皇の条にある和邇池にあたると言われています。考古学の実証データでは、関連する深溝井路とともに、奈良時代に成立していたと思われます。

 このため池は、流入する水路は深溝井路の1箇所、出るほうは数箇所あります。肥沃な喜志五郷の田んぼをを潤し、 羽曳野市の大乗川に注ぎ込み、石川に臥龍橋付近で合流します。

大和川が付け替えられる前は大乗川→平野川→中川→第二寝屋川を経由して、大阪城の東側 淀川(大川)まで流れていました。

数多くの田んぼを潤しながら...

 

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