富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

【前編】2024年度第4回(通23)まち巡り「喜志七郷、七寺めぐり」2024.12

2024年12月20日 | とんだばやし観光会

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とんだばやし観光会主催で2024年度第5回(通算第23回) とんだばやし観光会まち巡り「喜志七郷、七寺めぐり」を開催しました。今回は喜志の7つの地区とそのお寺を訪問し、全行程約7.5㎞の道のりを散策いたしました。その【前編】を紹介します。

2024年12月1日 9:47 富田林市喜志三丁目5 近鉄 喜志駅東ロータリー

10時集合ですがみなさん早くから来られ、先に来られた方は9:45には集まり、出発しました。

グループは2グループ、参加者は17名。

 

9:58 喜志の交差点 旧国道170号線・喜志小学校横

実はここはきわめて重要な街道の交差点なんです。つまり大阪を南北に通る「東高野街道」と東西に走る「いせ道(和泉街道とか喜志街道とも言う)の交わるところなんです。

東高野街道は京都から高野山を結ぶ平安時代には結ばれていた歴史街道でもあり、大阪の南北の人と物資が行き交った生活道路でもありました。

いせ道はその名の通り、堺方面から最終的に伊勢に至る街道です。「一生に 一度は 行きたい 伊勢参り(っしょうに ちどは きたい せまいり)=「」が4つ重なって「よい(四い)」ところなんです。

つまり、江戸後期に村の人たちが講を作り、お金を溜めてくじ引きか順番で伊勢参りをするのに歩いた道でした。また、大都市 堺から東西に大和に至るまで人と物資が行き交った重要な道でした。

「てて噛む鰯はよい鰯」と富田林の民話でも語り継がれているように、堺や泉州から朝早くとれた鰯をもう午前中には行商人が「てて噛む鰯はよい鰯」と声を張り上げ売りさばいていたそうです。

「そら、売れますわな。」

 

 

1〈木戸山 極楽寺〉融通念仏宗

開基についてはよく解っていませんが、中興は法明により元享元年(1321)中興とあります。(富田林市史2)

10:04 少し歩いて坂道(河岸段丘)を下り、極楽寺に着きました。

ここでは山門右にある祠を見せていただきました。

 

いかつく、かわいいこのお方は「神変大菩薩 役行者さま」です。

一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖を持っているはずですが、「あれれ巻物を持ってないな?」 どこかに忘れはったみたいです。

 

10:12 喜志の惣墓。3つの地区〈大深(おおけ=喜志)、桜井、木戸山〉の共同墓地です。

お相撲さんの墓や寺子屋の先生の墓(筆子塚という)、さらには「富田林のヒーロー、加賀屋甚兵衛」(法名 圓信(えんしん)の碑もあります。二上山が石川の向こうにきれいに見えます。

《リバイバル・アーカイブス》甚兵衛(じんべい)ものがたり 2015.5.29

 

10:19 いせ道の大深(喜志)の町中に入る手前のお地蔵さま

街道の入口におられる邪気を払うお地蔵さまです。邪気が町中に侵入すると、はやり病や厄、魔物が入ってくると信じられていました。

 

2〈大深(喜志)正信寺〉真宗興正派

開基についてはよく解っていません。寛文八年(1668)の過去帳があります。(富田林市史2)

10:24 このあたりが大深の中心地。中位河岸段丘面から低位河岸段丘面に坂を降りたところ。近くに旧庄屋さん宅や厨子(つし)二階入母屋平入りの伝統的な民家が残ります。

 

10:40 ナビゲーターの説明に耳を傾ける参加者。

 

有事の時のために太鼓が用意されています。

 

石川 さらに低位河岸段丘面から氾濫原に降りて、人工堤防を歩きます。ここを明治の始めまで、「剣先船」が冬場に就航していました。

 

上りは人夫さんに曳かれて、この辺りで手前側に90度曲がり、川面(かわづら)浜に入港していました。

「喜志の川面 小ざいしょなれど 浦にどんとと 舟がつく」

 

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剣先船 物資運搬船の二十石船で2.5~3トンの積み込めます。

大坂難波橋まで川路七里半、下りは近在で生産された物資、米・木綿・油・酒・材木などを運んで、帰りの上りは、塩・荒物・肥料・大豆(千早の凍り豆腐用)などを運びました。

《リバイバル・アーカイブス》喜志 川面浜の剣先船 1 2015.6.24

《リバイバル・アーカイブス》喜志 川面浜の剣先船 2 2015.6.25

 

10:51 川面町会館には「金毘羅夜燈」 嘉永五年(1852)建造。

船の安全の神様である「金毘羅大権現」の灯籠です。元は川面浜か船の転回場であった「除ヶ淵(どんがぶち)」にあったようですが、舟運が途絶えると最終的にここに据えられたようです。

記銘が道とは逆に後ろを向いていますが、これは「灯籠が淋しかろう。」と村人がわざと川面浜の方向に据えたと聞いています。

 

10:54 さらに少し行くとこちらは「太神宮夜燈」、つまり伊勢灯籠です。

富田林市には伊勢灯籠が24基ありますが、最大規模の高さ270cmの灯籠です。金毘羅夜燈より74年早い安永七年(1778)に川面村により建造されました。

 

3〈川面 金光寺〉真宗大谷派

開基についてはよく解っていません。(富田林市史2)

11:00 喜志七郷では喜志新家とともに東本願寺 大谷派のお寺です。山門に入るとお若いご住職がおられたので少しお話をお聞きしました。

まち巡りをしていて町の方にお話をお聞きするのはひとつ醍醐味ですね。

 

4〈桜井 明尊寺〉真宗本願寺派(西本願寺)

非常に開基の古いお寺です。了智坊文永十年(1273)鎌倉時代の創建と伝わります。文明四年(1472)戦国時代 寺号公称。蓮如の裏書がある方便法身尊像があります。

 

11:17お寺にはイチョウが多いですね。

他に、興正寺別院、浄谷寺、西方寺、光盛寺などにもあります。

ここで喜志七郷のお寺をまとめてみました。

1〈木戸山 極楽寺〉融通念仏宗

2〈大深(喜志)正信寺〉真宗興正派

3〈川面 金光寺〉真宗大谷派

4〈桜井 明尊寺〉真宗本願寺派(西本願寺)

5〈宮 月光寺〉真宗興正派

6〈平 安楽寺〉融通念仏宗

7〈喜志新家 光圓寺〉真宗大谷派 (訪問順)

 

真宗興正派2  真宗本願寺派1  真宗大谷派2  融通念仏宗2寺

真宗系5寺と浄土真宗のお寺が多いですね。

 

11:20 桜井の井戸 

「河内名所図会」にも記載されている弘法大師祈願の井戸また聖徳太子の伝説もあります。 

大師伝説と太子伝説の両方がある名所は富田林市ではここだけです。

高野山へ行く東高野街道が横を通り、叡福寺に行くいせ道が近い故、2つの伝説が生まれたのでしょうか?

 

江戸時代は冷たく甘味があったため、茶道の水に利用され、遠方より汲みに来たらしいですが、今は湧いてなく残念。

 

喜志 粟ケ池

南北約400m、東西150m、6.6ヘクタールの規模を誇る喜志七郷のため池です。

この周りには正方位条里地割(飛鳥・奈良前期)が施行され、今は肥沃な穀倉地帯となっています。

自然の河川の流入がないのが特徴で、水源は、7.3km上流の石川の水を荒前井堰から、また途中4.8kmの地点で深溝(ふこうど)井堰より取水し、井路(人工の水路)を通って上流の村々を潤しながら流れてきます。

《リバイバル・アーカイブス》喜志の条里と粟ケ池 1 2015.7.25

《リバイバル・アーカイブス》喜志の条里と粟ケ池 2 2015.8.7

 

12:14 ここでうれしい昼食休憩。この後の後半戦(宮→平→喜志新家)は【後編】でお伝えします。

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とんだばやし観光会(25)

とんだばやし観光会—富田林観光ボランティア ホームページ

写真撮影:2024年12月1日

2024年12月20日 アブラコウモリH

 

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