フランス語をカタカナで表記するのはなかなか難しい。「Déjà-vu」は、「デジャヴ」、「デジャブ」、「デジャヴュ」…。日本語訳は、「既視感(きしかん)」。
この既視感、私は30歳までは、およそ年平均2回は経験しています。年齢に反比例して減ってきて、ここ20年ぐらいは、視ていません。
私の既視感は…
「あ!これと同じ場面を経験したことあるぞ!どこだったかなあ?いつだったかなあ?このあとの展開も知っているはずだが…思い出せない…ああ、じれったい…」初めて訪れた場所なのに、「あれ?前にも来たことがあるぞ…。いつだったかなあ?」というもの。
タイムトラベル…?一度経験したことと、全く同じことを現在している感じ。場面、登場人物、セリフ…皆同じ。おかしい?そんなバカな?
そうこう考えているいちにいつの間にかそのことを考えなくなる。しばらく経って、また同じような経験をする。子供の頃は自分だけが経験するのかと思い、人に話さないようにしていました。自分の脳は変だぞ。木から落ちてしばらく気を失っていたことが原因か?そのうち多くの人が経験していると知りました(ある大学の調査では、学生の75%が経験ありと回答しているという)。
今は、「記憶異常」と考えられ、健全な人にも多発する一般的な感覚ということになっています。その前は、「統合失調症」「てんかんの一症状」として現れると考えられていたようです。
20世紀初頭の本に、既視感が出て来ているらしい(フランスの超心理学者の著書。心理学科出身ですが、読んでいません。というか日本語訳が出されていないのではないか)つい最近になって、既視感は、心理学、脳神経学等の研究対象として注目されるようになってきました。
利根川進先生(ノーベル生理学・医学賞)は…
脳が、「新しい場所や経験の地図を、頭の中に作る」次に、同じ場面に遭遇したときに対処できるようにそれを保存する。保存しておいたものと、新しい経験が似ている場合、脳は区別しようとする。このとき、既視感が誘発される…。というような発表をしています。利根川先生に、「ちょっと違うぞ、ニューロンとか海馬とかの言葉も使え」と、言われそうですが、庶民にとって、脳は脳でして…大体合っていると思います。
私の既視感の考え方ですが…利根川説とほぼ同じです。「ほぼ同じ?」それは単なるパクリだべって?考えが偶然一致しただけで、実際はパクリではありません。しかし、ノーベル賞の学者さんと田舎のオッサンの似通った論、オッサンがパクったに違いないと思われるに違いありません…。それで、利根川説にはない、年齢と反比例して既視感が減ることについて書いておきます。この反比例については、科学的な立証があるわけではありません。私の経験上からのことです。
脳細胞は、衝撃を受けただけでも死にます。しかし、復活も早い。22歳の朝からは、衝撃を受けなくても毎日10万単位で死滅していく。しかし、復活のほうも頑張ってくれる(これも、利根川先生が研究発表している。一度傷つくと再生しないとされていた脳細胞が、ガン遺伝子によって再生されるのだそう)。ともあれ、人の脳細胞は140億以上。10万、20万減ったところで問題はない。
それなのに、加齢により、「人の名前が思い出せない」「ガスを消し忘れ鍋をこがしてしまう」「昨夜の夕食のメニューを忘れる」「車のロックを忘れる」…これは、記憶を引き出す能力の低下であり、脳細胞の伝達能力の低下です。細胞の数の問題ではありません。伝達能力が下がる!
脳のアーカイブスにファイリングされている情報は、新しい状況下において対処法を考えるため、即座に過去の似た経験と、目の前の事象を重ね合わせる。加齢による伝達能力の低下は、この「比較」「区別」の段階ですでに遅れをとる。そのため、既視感として脳に感じさせることが減っていく。それなら、単に老化現象で既視感も老化するってことかって?まあ早い話が、そうゆうこと。これで、加齢により既視感を感じることが少なくなることの説明がつきます。
既視感がなくなってきていることが、実は少々寂しい。既視感を感じた直後のあの、「いつだったかな?どこだったかな?」という、なんとも不思議なスッキリしない感覚。それがスッキリすると、超心理学から超能力の分野の問題となる。どんな分野でも超能力のひとつぐらい持ちたいものです。「曲がれ!」と、叫ぶとスプーンが曲がる超能力でもいいんです。
加齢により、超能力を持つ可能性も消えていく…寂しいかぎりです。
この既視感、私は30歳までは、およそ年平均2回は経験しています。年齢に反比例して減ってきて、ここ20年ぐらいは、視ていません。
私の既視感は…
「あ!これと同じ場面を経験したことあるぞ!どこだったかなあ?いつだったかなあ?このあとの展開も知っているはずだが…思い出せない…ああ、じれったい…」初めて訪れた場所なのに、「あれ?前にも来たことがあるぞ…。いつだったかなあ?」というもの。
タイムトラベル…?一度経験したことと、全く同じことを現在している感じ。場面、登場人物、セリフ…皆同じ。おかしい?そんなバカな?
そうこう考えているいちにいつの間にかそのことを考えなくなる。しばらく経って、また同じような経験をする。子供の頃は自分だけが経験するのかと思い、人に話さないようにしていました。自分の脳は変だぞ。木から落ちてしばらく気を失っていたことが原因か?そのうち多くの人が経験していると知りました(ある大学の調査では、学生の75%が経験ありと回答しているという)。
今は、「記憶異常」と考えられ、健全な人にも多発する一般的な感覚ということになっています。その前は、「統合失調症」「てんかんの一症状」として現れると考えられていたようです。
20世紀初頭の本に、既視感が出て来ているらしい(フランスの超心理学者の著書。心理学科出身ですが、読んでいません。というか日本語訳が出されていないのではないか)つい最近になって、既視感は、心理学、脳神経学等の研究対象として注目されるようになってきました。
利根川進先生(ノーベル生理学・医学賞)は…
脳が、「新しい場所や経験の地図を、頭の中に作る」次に、同じ場面に遭遇したときに対処できるようにそれを保存する。保存しておいたものと、新しい経験が似ている場合、脳は区別しようとする。このとき、既視感が誘発される…。というような発表をしています。利根川先生に、「ちょっと違うぞ、ニューロンとか海馬とかの言葉も使え」と、言われそうですが、庶民にとって、脳は脳でして…大体合っていると思います。
私の既視感の考え方ですが…利根川説とほぼ同じです。「ほぼ同じ?」それは単なるパクリだべって?考えが偶然一致しただけで、実際はパクリではありません。しかし、ノーベル賞の学者さんと田舎のオッサンの似通った論、オッサンがパクったに違いないと思われるに違いありません…。それで、利根川説にはない、年齢と反比例して既視感が減ることについて書いておきます。この反比例については、科学的な立証があるわけではありません。私の経験上からのことです。
脳細胞は、衝撃を受けただけでも死にます。しかし、復活も早い。22歳の朝からは、衝撃を受けなくても毎日10万単位で死滅していく。しかし、復活のほうも頑張ってくれる(これも、利根川先生が研究発表している。一度傷つくと再生しないとされていた脳細胞が、ガン遺伝子によって再生されるのだそう)。ともあれ、人の脳細胞は140億以上。10万、20万減ったところで問題はない。
それなのに、加齢により、「人の名前が思い出せない」「ガスを消し忘れ鍋をこがしてしまう」「昨夜の夕食のメニューを忘れる」「車のロックを忘れる」…これは、記憶を引き出す能力の低下であり、脳細胞の伝達能力の低下です。細胞の数の問題ではありません。伝達能力が下がる!
脳のアーカイブスにファイリングされている情報は、新しい状況下において対処法を考えるため、即座に過去の似た経験と、目の前の事象を重ね合わせる。加齢による伝達能力の低下は、この「比較」「区別」の段階ですでに遅れをとる。そのため、既視感として脳に感じさせることが減っていく。それなら、単に老化現象で既視感も老化するってことかって?まあ早い話が、そうゆうこと。これで、加齢により既視感を感じることが少なくなることの説明がつきます。
既視感がなくなってきていることが、実は少々寂しい。既視感を感じた直後のあの、「いつだったかな?どこだったかな?」という、なんとも不思議なスッキリしない感覚。それがスッキリすると、超心理学から超能力の分野の問題となる。どんな分野でも超能力のひとつぐらい持ちたいものです。「曲がれ!」と、叫ぶとスプーンが曲がる超能力でもいいんです。
加齢により、超能力を持つ可能性も消えていく…寂しいかぎりです。