「エヴォラ」と聞いて、ポルトガルの町を連想する人は…多くないかと。私など、真っ先に、「エヴォラ出血熱」を思い出しましたよ。「それなら、ゴルゴ13の読み過ぎだろう!」って?残念でした。リチャード・プレストンの、「ホット・ゾーン」からの知識でした。もちろん、ゴルゴ13も読みましたけどね。
ポルトガルのエヴォラへも行ってきました。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方(ポルトガル南東部)の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。何をしにその町へ寄ったかって?全くミーハーなもので、「エヴォラ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されていることと、天正遣欧少年使節が立ち寄った所ということで…。そこで、恐ろしい「出血熱」が発生したのかって?出血熱のほうは、ポルトガルのエヴォラとは全く関係なく、病気が流行した地域の川の名前(アフリカ中央部~西アフリカ)。
「天正遣欧少年使節」懐かしいでしょう!私は出発前に資料を読んで復習しましたよ。高校の頃日本史で習ったわけで、その時は大した感慨はありませんでした。今となって、あらためて「感嘆」しました。1582年ですよ!「山崎の戦い」つまり、秀吉が明智光秀を討った戦いの年に、13~14歳の少年達4人がヨーロッパへ出発した!キリスト教徒、進んでいたのですねえ!
名前が凄い!もっとも、クリスチャンネイムですがね。
1 伊東マンショ
2 千々石ミゲル
3 中浦ジュリアン
4 原マルチノ
4人で行ったのではなく、随員が8人いた。うち1人はインドのゴアに留まった。結局、ポルトガルに上陸した天正遣欧少年使節団は、11人だった。
使節団の目的は、…
1 ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼する
2 日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てる
天正遣欧少年使節は、1582年に出発して、1590年に帰国。支倉常長がヨーロッパへ行ったのが、1613年~1620年。支倉常長と天正遣欧少年使節は、とかくごっちゃに考えられることが多いですが、実際は時代が違います。
えっ?誰もごっちゃに考えないって?だけど…支倉常長が、天正遣欧少年使節団の団長だったという人さえいるんですけどねぇ…。
天正遣欧少年使節が見た大聖堂を、428年後に私が見た…それがどうした?ってところですが…感慨があるのです。時間と空間を超越した…こういう感慨を、「夢とロマン」っていうのでしょうねえ。生きてて良かったぁ。
4人の使節団の帰国後がそれぞれ不幸。もっともキリスト教禁止令(1587年豊臣秀吉)が続いていた時代でしたから。特に、中浦ジュリアンさんなどは、「穴づり」で殉教でした(1633年)。「穴づり」は、テトラの間から釣り糸を垂らしてソイやガヤを釣る…その穴づりとは違うのです。
穴づりは、江戸初期にキリスト教信者を棄教させるための最も過酷な拷問でした。…いや、処刑ですね。
深さ1メートルほどの穴の中に逆さに吊すわけですが、穴には糞尿を入れてある。そこへ、手足胴をグルグル巻に縛った人を逆さまに吊す。体の半分が穴に入る感じ。なぜグルグル巻にしたか?逆さまにすると、内臓が下がって早く死んでしまいます。苦しませるためには、内臓が下がらないようにきつく巻く必要があったのです。
これだけじゃないのです。逆さまに吊すのですから、血が頭に集まります。そうなると、頭の血管がブチブチと切れて早く死にます。苦しませるために、こめかみに穴を開けて、血が抜けるようにしたのです。血が抜ける前に、死んでしまうと思うのですがね…。
私なら、吊される前に、「キリスト教をやめまーす!」と、言いますがね。冗談じゃないですよ!ところが、中浦ジュリアンさんは…殉教。もっとも、還暦を過ぎていたわけですから、吊された瞬間に意識を失ったとも考えられます。
ポルトガルのエヴォラへも行ってきました。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方(ポルトガル南東部)の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。何をしにその町へ寄ったかって?全くミーハーなもので、「エヴォラ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されていることと、天正遣欧少年使節が立ち寄った所ということで…。そこで、恐ろしい「出血熱」が発生したのかって?出血熱のほうは、ポルトガルのエヴォラとは全く関係なく、病気が流行した地域の川の名前(アフリカ中央部~西アフリカ)。
「天正遣欧少年使節」懐かしいでしょう!私は出発前に資料を読んで復習しましたよ。高校の頃日本史で習ったわけで、その時は大した感慨はありませんでした。今となって、あらためて「感嘆」しました。1582年ですよ!「山崎の戦い」つまり、秀吉が明智光秀を討った戦いの年に、13~14歳の少年達4人がヨーロッパへ出発した!キリスト教徒、進んでいたのですねえ!
名前が凄い!もっとも、クリスチャンネイムですがね。
1 伊東マンショ
2 千々石ミゲル
3 中浦ジュリアン
4 原マルチノ
4人で行ったのではなく、随員が8人いた。うち1人はインドのゴアに留まった。結局、ポルトガルに上陸した天正遣欧少年使節団は、11人だった。
使節団の目的は、…
1 ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼する
2 日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てる
天正遣欧少年使節は、1582年に出発して、1590年に帰国。支倉常長がヨーロッパへ行ったのが、1613年~1620年。支倉常長と天正遣欧少年使節は、とかくごっちゃに考えられることが多いですが、実際は時代が違います。
えっ?誰もごっちゃに考えないって?だけど…支倉常長が、天正遣欧少年使節団の団長だったという人さえいるんですけどねぇ…。
天正遣欧少年使節が見た大聖堂を、428年後に私が見た…それがどうした?ってところですが…感慨があるのです。時間と空間を超越した…こういう感慨を、「夢とロマン」っていうのでしょうねえ。生きてて良かったぁ。
4人の使節団の帰国後がそれぞれ不幸。もっともキリスト教禁止令(1587年豊臣秀吉)が続いていた時代でしたから。特に、中浦ジュリアンさんなどは、「穴づり」で殉教でした(1633年)。「穴づり」は、テトラの間から釣り糸を垂らしてソイやガヤを釣る…その穴づりとは違うのです。
穴づりは、江戸初期にキリスト教信者を棄教させるための最も過酷な拷問でした。…いや、処刑ですね。
深さ1メートルほどの穴の中に逆さに吊すわけですが、穴には糞尿を入れてある。そこへ、手足胴をグルグル巻に縛った人を逆さまに吊す。体の半分が穴に入る感じ。なぜグルグル巻にしたか?逆さまにすると、内臓が下がって早く死んでしまいます。苦しませるためには、内臓が下がらないようにきつく巻く必要があったのです。
これだけじゃないのです。逆さまに吊すのですから、血が頭に集まります。そうなると、頭の血管がブチブチと切れて早く死にます。苦しませるために、こめかみに穴を開けて、血が抜けるようにしたのです。血が抜ける前に、死んでしまうと思うのですがね…。
私なら、吊される前に、「キリスト教をやめまーす!」と、言いますがね。冗談じゃないですよ!ところが、中浦ジュリアンさんは…殉教。もっとも、還暦を過ぎていたわけですから、吊された瞬間に意識を失ったとも考えられます。