バッタモンのポタリング日乗

松本在住の自転車散歩日記です
  時々余計な話題も

木曽義仲ゆかりの地:朝日村薬師堂、光輪寺

2021-09-23 23:14:28 | 歴史探訪
光輪寺と薬師堂、何だか一番義仲に縁がありそうな寺だ
ここは義仲が中興開基とされ、兼平が中興の大檀頭といわれている
寺には「~当寺中興檀頭兼平殿~治承四年正月二十一日」の位牌がある(治承は1177年~1181年)
またお薬師の由緒の中にも
「~治承四年木曽義仲中興開基堂宇を再建し黒印36石を賜る云々」とあるらしい
かつてはこの裏山の奥に薬師堂があり古薬師と言われているそうだ
また光輪寺には
「爲平家退治祈願」
という祈願文があり義仲の花押とともに箱書きに直筆のお墨付きもあるそうだ
薬師堂脇には義仲手植えだといわれる桜の二代目がある

また兼平ゆかりの今井神社まで伸びる旧街道沿いには
薬師堂への道を示す石標が多数残っている
江戸時代後期に書かれた「善光寺道名所図会」には
今井神社から薬師堂まで屋根付きの回廊が作られていたと書いてあるがこれは創作ということだ

もし義仲が木曽で旗揚げして御馬越経由でこの地に来ても
一朝一夕にこの寺を再興できないことは容易に想像がつく
やはり早くからこの近くに住んでいたのだろう

以前仕事の関係で3年ほど朝日村の住宅に住んでいたのだが
それがちょうど光輪寺の隣だった
オウムを飼っていたおばあさんとはちょくちょく話をしたけれど
その頃に木曽義仲に興味持っていればよかったなぁ
お薬師の境内は子供たちの遊び場でした
                      
                      
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戸隠神社信仰遺跡

2020-08-13 17:11:38 | 歴史探訪
小川神社の近くに戸隠神社信仰遺跡の案内板
遺跡という文字に惹かれて行ってみることに

ぽつんと一軒家に行くような山道を上っていくと
路肩が崩れ鉄板と三角コーンで応急処置してある場所が・・・
FITの車幅ギリギリだ
バックもできないので恐る恐る渡る
おまけに周囲はスギ林になって薄暗くなってくる

びくびくしながら2キロくらい登ったろうか?
やっと奥の院の案内板
社はここから200メートルというが下で見た熊出没注意の看板にビビって行くのは中止
昨日上高地の小梨平でテントが熊に襲われたニュースを聞いたばかりだ
夏のこの時期は食べ物が少ないという
早々に退散

何でも上杉vs.武田の騒乱に巻き込まれ絶えず危機にさらされていたので
衆徒らは縁のあったこの地に避難し戸隠神社に模した三院を作り約30年間ここで過ごしたという
                   
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旧御射山

2020-08-09 21:49:19 | 歴史探訪
八島湿原の奥に鎮座する旧御射山神社(もとみさやまじんじゃ)は諏訪大社下社の祭祀場だ
平安から元禄にかけてここで7月の5日間狩猟や弓の競技が行われたということで
階段状に削平された場所には寝泊りするためにススキで屋根を葺いた穂屋が作られたそうだ
さながらコロシアムのようだと形容されているが
こんな所で寝泊りしたら蚊やブヨに食われて大変だったろう

特に鎌倉時代は盛大だったようで
これは諏訪氏の武士化が着々と進み承久の乱で抜群の戦功をあげ
政治の中枢に関わるようになり諏訪明神が手厚く保護され
軍神としてのブランド力が高まったことに起因するようだ

ここで弓矢のテクニックが認められた者は
給料アップとか他家からのヘッドハンティングとかあったのだろうか?
時代が平和な元禄あたりになると武術の需要も低下して
弓術コンペも衰退してきたのだろ

しかしビーナスラインも無い時代に全国各地からここまで来るのは結構大変だったろう
                   
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福与城址

2020-04-12 20:57:10 | 歴史探訪
以前から地図上で気になっていた福与城址

箕輪の天竜川左岸の段丘上に造られた中世の平山城で
武田信玄との攻防で50日間篭城したと言う堅城だったそうだ

丁度桜が満開で空堀の法面には水仙の黄色が敷き詰められ
森からは早々と鶯の歌声
のどかだ

城址は想像以上に大きな規模で曲輪、空堀が良く残されている
一部は畑として利用されていた

新型コロナ禍の昨今
ひと気のないこんな穴場を見つけてみるのも面白い
         
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松岡城址と亀之丞

2020-03-22 22:14:53 | 歴史探訪
飯田市の北隣高森町にある松岡城址
ベロのように突き出した河岸段丘上に造られた城跡は深い空堀や土塁曲輪が良く残されていて思いの他規模が大きい
丁度コッペパンを横に5本溝を掘ったようなイメージの縄張りだ

五の曲輪にある松源寺
大河ドラマでもお馴染みの亀之丞(後の井伊直親で井伊直政の父)
が今川氏の追っ手を逃れ10余年過ごした寺だ

亀之丞はこの松岡城の侍たちと武術や馬術の稽古をしてたくましく育ったと言う
徳川四天王の一角井伊家の礎がここで築かれたといっても良いのだろう

本曲輪に立つと眺めがなかなか素晴らしい
晴れていれば南アルプスの山並みも望めるはずだ
400数十年前の亀之丞もきっとここに立って眺めたのだろう
        
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諏訪の神様が気になるの

2020-02-01 18:02:52 | 歴史探訪
ツタヤで目に留まり早速購入
スタバでコーヒー飲みながら読み始めてみると
楽しく分かりやすい文章で思わず引き込まれる

諏訪大社と言うと
御柱と御神渡り
ちょいと興味のある人には
建御名方神、ミシャグジ、洩矢神、大祝、・・・なんて言葉が浮かぶが
そんなキーワードがなかなかリンクしなくてモヤモヤ守矢
この本を読めばジグソーパズルのピースがそれぞれぴったりはまり込むような気がする
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松本競輪場

2019-12-28 22:05:38 | 歴史探訪
松本ぽたりんぐクラブの忘年会の折に競輪の話が出て
そう言えば松本にもかつて競輪場があったことを思い出して痕跡探訪

1949年から1951年の2年間だけ開催されたのみで経営不振で廃止
其の後20年ほどして跡地に造られたのがこの開明小学校
何か痕跡があるかと不審者のようにウロウロしてみたが何にもなし
確か中学生のころまでは構造物があって一度見たような気がするが記憶が定かではない

70年前はこんな風景だったんだ
                      
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福島正則霊廟

2019-11-25 17:42:41 | 歴史探訪
葛飾北斎の八方睨みの龍の天井絵で有名な小布施は岩松寺
観光の定番コースであり訪れたのは30年ぶりくらいだろうか?
大勢の観光客で賑わうがほとんどの人は天井絵と
小林一茶の「痩せガエル・・・」の蛙合戦の舞台となった池を見るだけで
寺の裏手にある墓地の中に佇む福島正則の霊廟を訪れる人は少ない

秀吉と姻戚関係にあり幼少の頃から仕え賤ケ岳七本槍の一人として勇猛を馳せた正則だったが
朝鮮出兵を機に石田三成と険悪な仲になり関が原では徳川方に付き武功を立て
やがて広島50万石弱の城主となった
しかし、家康の死後水害で崩れた石垣を幕府に無断で修理したということで咎められ信州の片田舎に改易された
石高4万5千石・・・
外様大名の中でも性格的に徳川からの信用度が低く陥れられたのだろうか?
改易後5年でこの地に没した

秀吉、家康時代のドラマや小説には必ず登場する重要人物でありながら
その霊廟は簡素なものだ
中には戒名が刻まれた五輪塔があるということだが暗くてよく見えなかった
寺の中に展示してある数点の遺品が400年の時の流れを物語っていた

                
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若澤寺をポタる

2019-11-18 15:22:26 | 歴史探訪
明治初期の廃仏毀釈によって廃寺とされた波田の若澤寺
信濃日光とも称され訪れる人も多かった名刹で
かの十返舎一九も訪れたという
廃寺とはなったがその建物や仏像などは近隣の寺などに移築されたり引き取られたりしているので
今回は松本ぽたりんぐクラブのメンバーでそれらを巡るポタ

晩秋の穏やかな陽気の中
プランナーのM重さん始め知識豊富なメンバーの話に耳を傾けながら
田村堂から廃寺跡、波多山城址を訪れ
そこからは落ち葉が敷かれたシングルトラックを快適に下り盛泉寺の裏手に
この寺には観音堂が移築、六地蔵が移設されていた

「帰れマンデー」という番組に出たというお店で
おいしい十割蕎麦の昼食後は山形村の穴観音へ
ここには稲荷社が移築されていてその少し上の山中には宝篋印塔(ほうきょういんとう)という石塔も移設されている
ちなみに穴観音とは古墳を祀ったものらしく
それを見抜いたサンプレ氏はさすが

締めは今井の浄土宗正覚寺で
ここには金堂が移築されていた
その前であれやこれやワイワイやっていると
住職が出てきて「中を見ますか?」
もちろん二つ返事
朱塗りの厨子の前にある観音菩薩はやはり廃仏毀釈にあった浅間のお寺から引き取ったということだ
今井は高遠藩の管轄で松本藩の手が届かなかったのもここに建物や仏像を持ってきた理由らしい
いろいろ説明をいただいたり貴重な資料など見せてもらい
一同思いがけない体験に満面の笑みを浮かべながらのエンディングとなった
                 
あっ、今井は幕府直轄の天領だったそうな。
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信玄終焉の地を訪ねて:その2

2019-05-02 06:20:57 | 歴史探訪
根羽村の信玄塚から国道153号線を北上すること20キロ余り
阿智村駒場に長岳寺という寺がある

信玄は甲斐への帰路このあたりの山中で亡くなり
遺骸がこの寺に運び込まれ火葬されたということだ

この寺は1000年以上の歴史があり
かつてはかなり広い寺社領を持っていたが
諸々の事情により3回の移転を経て現在地に50年ほど前に移築されたそうだ

少し離れた裏山にある信玄が荼毘に付されたと言う火葬塚から出た灰を
昭和の時代に建立した十三重塔に移したということだ

寺には信玄の遺品とされる「兜の前立て」と兜の中に入れられていた小さな仏様が展示されており
これを見ていると本当にここが信玄終焉の地と思えてくる

息を引き取ったのが根羽村の地で
火葬されたのが近隣で比較的規模の大きかった長岳寺なのだろうか?
映画「影武者」では骸を諏訪湖に沈めていたがそれは確実に無いだろう
         
         

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