バッタモンのポタリング日乗

松本在住の自転車散歩日記です
  時々余計な話題も

多田加助の道15

2013-09-15 23:20:27 | 多田加助の道
鈴木伊織が江戸より処刑中止の赦免状をもち早馬にて駆け付けたが
もう少しという所で馬の足が折れ間に合わなかった

松本城と勢高の処刑場の間のその場所は駒町と言われるようになり
その馬を祭祀した観音様もある

ルートラボに落とした加助の護送ルートはこちら
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多田加助の道14

2013-09-15 22:36:36 | 多田加助の道
加助騒動当時の松本藩主水野忠直は江戸詰めであった
その家臣鈴木伊織は百姓の困窮した生活に同情的だった

藩主に処刑中止を懇願し承諾を得て
早馬で松本城下まで来たが
処刑には間に合わなかったと言う逸話が残されている

真偽のほどは定かでなさそうだが
こうして名前が語り継がれていると言うことは
加助たち百姓の良き理解者であったに違いない

その鈴木伊織の墓所脇の湧水は伊織霊水と名付けられ
コンコンと清冷な水が湧き出ている
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多田加助の道13

2013-09-14 22:27:14 | 多田加助の道
1686年11月22日城山の勢高と出川の処刑場で
加助以下28名が磔、獄門の刑に処せられた

勢高の処刑場は臨時だったので場所が明らかではなかったが
丸の内中学建設時に処刑された人数相応分の人骨が出てきたので場所が特定でき
そこに義民塚を造り遺骨を埋葬した

上土の牢から処刑場までのルートは
江戸時代の松本城下絵図に描かれている道筋から見て
外堀と女鳥羽川の間の今の縄手通りを西に向かい
駒町を経て刑場へ連れて行かれたと想像する

この加助騒動の3年後に松尾芭蕉は奥の細道に旅立っている
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多田加助の道12

2013-09-14 21:51:52 | 多田加助の道
加助達が処刑されるまでの数日間投獄されていた牢舎は
松本城の東側の上土にあった

かつては単館の映画館がたくさんあった松本の街だが
今は亡き開明座やピカデリーのあった辺りだろう

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多田加助の道11

2013-09-14 21:23:04 | 多田加助の道
養老坂を越えた加助一行は
松本平を見下ろしながら塩倉の集落に下り
神沢から開智学校方面へ向かうほぼ直線的に残っている旧道を通り
途中から安原町で善光寺街道に合流したものと思われる
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多田加助の道10

2013-09-08 00:04:13 | 多田加助の道
泣き坂は途中で松本トンネルのアクセス道路に突き当たり
そこから先は埋もれてしまっている

道はその少し上のアルプス公園北口駐車場奥から再度現れる
この部分は養老坂と言われ古道の雰囲気を良く残している

ここは糸魚川からの塩を塩倉に運ぶ塩の道でもあった
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多田加助の道9

2013-09-07 20:08:01 | 多田加助の道
国道から坂を上ると
篠ノ井線の踏み切り手前に松の木と岩がある

これは加助夫婦惜別の岩と言われ
加助を慕ってついて来た村人や妻のお民とここで別れたと伝えられている
傍の案内板にはそんな話が添えられている

この坂道を泣き坂と呼ぶようになったのはその後からだろうか
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多田加助の道8

2013-09-07 08:54:35 | 多田加助の道
下田の集落には口留番所が置かれ
さらに平瀬城とその支城を構えた交通の要衝だ

これ以降のルートは比較的はっきりしており
一行はこの集落から奈良井川に沿って南下していく

古道は国道に吸収されたものと思われる
1キロほど先の国道脇退避場の壁に「加助夫婦惜別の岩」の案内板がある
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多田加助の道7

2013-09-06 22:30:43 | 多田加助の道
小海渡の集落を東に折れると熊倉の集落だ

ここは犀川の渡し場として重要な所であり
対岸の下田集落には口留番所跡の標柱もある

加助一行が朝靄の立ち込める犀川を渡り安曇野に別れを告げたのは
11月16日の早朝だ

船頭が加助の護送と知るや船を出すのを拒んだので
仕方なく役人が漕いだという話もあるが尾ひれ的な感じもする

渡し舟を模った記念碑にも加助の話が刻まれている
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多田加助の道6

2013-09-06 13:39:10 | 多田加助の道
蔵久を過ぎ中飯田で進路を北に取る

下飯田に入るあたりに飯田砦跡を見つけた
今までも通ったことのある道だけれど気が付かなかった

砦があるということはこの道は戦国時代から存在したと思われ
加助一行が通った可能性が大だ

近くを通りかかったおじさんに伺うと
この辺りには幾つか砦跡があるようだ
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