「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市首里崎山町にある 「 雨乞嶽 ( アマグイウタキ ) 」

2013-03-17 07:10:35 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



雨乞嶽


















雨乞いの行われた御嶽は沖縄各地にあるが、
ここは俗に 「 アマグイウタキ 」 と呼ばれ、
干ばつの打ち続く時に王様が自ら家臣たちを率いて
この御嶽で雨乞いの祈願をしていた。
マーニ ( クロツグ ) の生えた小さな丘を、
低い石垣で丸く囲んで聖域とし、石敷きの壇に香炉が設けられている。
また、ここから南西方向への眺望の広がりは見事で、
首里八景の一つとして 「 雩壇春晴 ( うだんしゅんせい ) 」
( 春雨の合い間に雨乞いの丘からの眺望が素晴らしい ) と謡われている。


所在地 : 沖縄県那覇市首里崎山町1


沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 ユーラジ御嶽 」

2013-03-16 06:44:12 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











道路わきに立つ路標





平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


ユーラジ御嶽には東側に祠があり、中に2基の香炉が置かれている。
また、祠の傍には石が2個並べてあり、神が天に上がる処といわれている。
この御嶽の辻で夜占い ( ようらない ) が行なわれていたということで、
ユーラジ ( 夜占いの地 = ユウラの地 = ユウラジ ) 御嶽と称されている。

『 宮古島記事仕次 』 によれば、宮古の古い習俗に、吉日を選び、
火の神に焼香して 「 玉城 ・ 普門好善 ( たまぐすく ・ ふもこぜ ) 」 と唱え、
道行く人の言葉の吉凶に従って事の善悪を知る夜占いがあった。

玉城 ・ 普門好善については、久場嘉按司の一人娘に普門好善という容顔うるわしい女がいた。
琉球の人で玉城という商人と夫婦になり、男の子を一人もうけた。
玉城は商用で八重山に渡り、何年か後に帰島して、夜遅く普門好善の家を訪ねた。
外から家の中を窺うと、子どもが夜泣きして普門好善があやしていた。
泣き止まぬ子に普門好善は、 「 流浪人の子が何で夜泣きするのだ 」 と叱りつけた。
これを聞いた玉城は家の中に踏み込み、 「 私は公用で旅をする。流浪人とは何事か 」 と怒り、
子どもを奪い取ってそのまま船を出し、琉球を目指して出発した。
琉球に着い玉城は夜遅く首里に帰る途中、占いの名人の家に寄った。
占い師は、 「 当国の人南国に遊んで善子を得て帰るとの卦が出ている。
この子は必ず按司となるだろう 」 と占った。
その占いの通り子どもは成長して按司になったという。


所在地 : 宮古島市平良 東仲宗根



沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 船立堂 ( 御嶽 ) 」

2013-03-14 07:03:42 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所





























平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


兄妹 「 かねどの・しらくにやすつかさ 」 を鍛冶神・農業神として祀る御嶽である。
『御嶽由来記』によれば、その由来は 「 昔、神代に久米島按司という人に一人の娘がいた。
兄嫁は邪険放辣な女で娘を邪魔に思い、按司にこの娘には毎夜忍んでくる男がいると讒言 ( ざんげん ) した。
按司はこれを信じ怒って娘を小舟に乗せ沖に流した。
これを見かねた兄は小舟に泳ぎ乗り、妹とともに漂流した。
翌朝、小舟は漲水の浜に漂着。
その夜の夢に神のお告げがあり、兄妹は船立の地に移り、苫屋を設けて住んだ。
里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らしていたが、
やがて妹は住屋里(すみやーさと)かねこ世の主と夫婦となり、9人の男子をもうけた。
成人した子供たちは祖父に逢いたいと思い、母を伴って久米島に赴き、按司と対面した。
按司は先非を悔いて親子の藍を尽し、黒がね・巻物を引き出物に贈って宮古島に返した。
兄はこの黒がね・巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラ・鎌などの農具を作ったので、
農業が発達し、豊穣の世になった。
万民飢えをしのぎ安楽に暮らせるのはこの兄妹のお陰だとして、
二人の白骨を船立山に納め御嶽の神として崇めた』と伝わっている。
 
主な祭祀として旧11月8日のフーツキヨーカ、旧8月8日のカージャー願い ( 鍛冶祈願 ) がある。
       
所在地 : 宮古島市平良 西仲宗根



沖縄県宮古島市   「 四島の主墓 ( ゆすまぬすばか ) 」

2013-03-11 05:00:53 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



四島の主墓 ( ゆすまぬすばか )












墓の構造は、ツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、
南南西に向いて一枚岩を乗せたアーチ門が築かれている。
また墓室は一室で、墓口が二ヶ所に設けられている。
墓は近年まで四島の主の子孫により代々、使用されてきたと伝えられている。

看板には、「 四島の主とは、狩俣、島尻、大神、池間四邑(むら)の支配者の俗称で、
雍正旧記には、昔狩又四島の親童名百佐盛と申す人は、
狩俣、島尻、大神、池間合わせて四ヶ村壱人にてかけ候に付き、
四島の親と為申由候 」 と記されている。

「 四島の主 」 、または 「 四島の親 」 といわれた人物は、
狩俣生まれのユマサイなのかどうか?定かではないが、
童名は百佐盛 ( ももさもり ) というらしい。

「 狩俣ニーリー 」 にユマサイが謡われ、
「 四島の主アーグ 」 に狩俣の四島の主が謡われている。
両方とも船を造り、八重山を航海したことが謡われているが、
同一人物なのかハッキリとしない。

四島の主は、島尻と狩俣の間の入江に渡地橋を架け、
農道を改修し、その道々に石積みの休憩所を設けた。
さらに飲料水の井戸を開削したという。
彼は農民の利便を図り農耕を奨励したので、
住民はその仁徳をしのび、墓参りを絶やさなかったという。
その子孫は、狩俣の白川氏与那覇家といわれている。




沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 保里御嶽 ( フサティウタキ ) 」

2013-03-09 00:30:56 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


保里御嶽は、芋ヌ主御嶽の右上の高台にあり、遠くからでも御嶽の木々の密集の姿が見える。
フクギ、ガジュマル、クワノハエノキなどが生えている。
路標は遺跡となっており、フサティ御嶽とは書かれてはいない。
二基の香炉が置かれたイビの中央に 「 テダノ主神 」 があり、
その左右に 「 水の神 」 「 トビトリノ主神 」 と神名が記されている。
古い長方形の鏡がひとつ安置されている。

由緒
  14世紀の人で西仲宗根の首長保里天太の居城跡と伝えられている。
保里天太に二人の男子がいれ、嫡子を保古利屋盛、次男をくじさかりと言った。
保古利盛は機転がきかず無能で、くじさかりは器量人に勝り武術の達人であったから
家督を一部の首長にふさわしい次男に嗣がせようと保里天太は常々話していた。
保久利屋盛がこれを知って長男として生まれながら弟の下に立つとは末代までの恥だと悔しがり
弟を亡き者にしようと村人たちを言葉巧みに誘って策を謀るが、
くじさかりは兄の謀をいち早く知って城外へ逃れ、箕隅(城辺町友利)へ隠れ住んだ。
家督を嗣いだ保久利盛は父の保里天太につらく当たり、
やがて兄弟の家督争いに遭って悲嘆にくれる父を城から追い出してしまった。
保里天太はくじさかりのいる箕隅に尋ね行くが、老齢と悲嘆から途中で倒れ、
そのまま息絶えてしまったと伝えられている。


 『宮古史伝』では、「保里天太の城は後の糸数城である」と云い、
糸数城は「西仲宗根保里御嶽(又は不佐手御嶽とも書く)一帯の
高地上に築かれた広大な所であったと云う。
また、『宮古島庶民史』は、「旧城内に按司御嶽という所があり、
糸数按司と彼の倭人を祭ると云われる。」と記している。

所在地 : 宮古島市平良 西仲宗根



沖縄県北中城村   「 喜舎場公 ( きしゃばこう ) の墓 」

2013-03-07 00:04:16 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



喜舎場公の墓







喜舎場公の墓碑







喜舎場公の子孫と上代の墓













喜舎場トンネル










北中城中学校を過ぎ、喜舎場集落後背の丘に 「 喜舎場公の墓 」 がある。
ここは喜舎場集落発祥の地でもある。
喜舎場公の墓は、岩と一体化した重厚な墓で、
喜舎場公の子の墓は、岩の上には石積みセメント塗りで拝所ふうに仕立ててあり、
昭和12年に補修されたものである。

喜舎場公は13世紀半ばの人で、村を創り喜舎場の名をつけたという。
息子と娘は自分たちも新しく村を造りたいと思い、
無人島らしい小島が見えたので、喜舎場子と妹のマシラヨはその島に渡って住み、
子を産んで子孫が増え、津堅島になったと言われている。

別の伝えでは島へ渡ったものの、島はすでに大勢の人が住んでいた。
しかし先住者は二人を歓迎したので、農作を教え尊敬された。
二人が亡くなると中ヌ嶽に葬り崇信されたという。
その直系にあたる仲真次家は津堅島の根所 ( 草分け ) であり、
喜舎場村の根所は喜舎場公の直系の仲間家である。
津堅島から年4回喜舎場公の墓を参拝する。
字では旧暦9月18日に例祭を行なっている。



沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 芋ヌ主御嶽 ( んーぬしゅううたき ) 」

2013-03-05 05:14:18 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所





















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


由緒  ( 御嶽入口の掲示から )

この御嶽は西仲宗根の保里嶺東端に所在する。
中国から芋を宮古に伝えた砂川親雲上旨屋 ( 長真氏旨屋 ) を
ンーヌ主 ( 芋の神様 ) として祀った御嶽である。

1594年、長真氏旨屋は与人役 ( 村番所役人 ) の時、
御物宰領 ( 御用物責任者 ) となって河充氏真逸らと琉球王府に至り、
公事を終えて帰島の洋中、逆風に遭って中国に漂着した。
丁度この年、中国にはルソン島から芋が伝わり栽培普及が行われていた。
旨屋らは三年間中国に滞在し、1597年、芋かずらを持って帰国の途についたが、
また、船が遭難して九州へ漂着、回航して同年、漸く宮古へ帰島した。
旨屋らは芋かずらを分けて栽培普及につとめた。
芋は五穀にまさり台風旱魃にも強く宮古の風土に適したので、
人々は作物として競って裁植、五穀に代わって芋が主食になった。

旨屋は1632年に砂川間切の頭職 ( 親雲上 ) となり、
10年後の1642年に琉球からの帰途八重山に漂着して病死した。
後年、旨屋はンーヌ主 ( 芋の神様 ) として御嶽に祀られた。
この御嶽では戦後間もない頃まで、
毎年8月に初芋を捧げてンーブーズ ( 芋の豊作感謝祭 ) が盛大に行われていた。

琉球 ( 沖縄本島 ) へは1605年に野国総監が中国から芋苗を導入、
後年、琉球の芋が薩摩に伝わって 「 さつまいも 」 と称された。


所在地 : 宮古島市平良 西仲宗根



沖縄県多良間島   「 運城御嶽 」

2013-03-04 05:11:04 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











道路に面した御嶽







御嶽の周りはフクギに囲まれている

















運城御嶽の神名を「オトガフセライ神ノフセライ」と唱える。
嘉靖年間(1523年頃)土原豊見親によって創設されたと伝えられる御嶽である。
御嶽由来記には、次のように記されている。
「 神代に多良間仲筋村の主、
平屋西筋 ( ヒラヤスズ ) という人の男の子にオソロという者があったが、
幼少の時から正しく朝夕天神を拝み、成人するに従い信仰をますます厚くし、
運城と泊の両所に御嶽を建てて、37日 ( サンシチニチ ) 山ごもりをして祈願したら、
霊感があって天神が降り、運城には島守の神、泊には海守の神を垂れ給う。 」 とある。
これは伝説であろうが、御嶽の建造は土原豊見親が成人して島主に任ぜられた後のことである。

この御嶽の祭事は、旧三月のムギプーリ ( 麦の初穂祭 )。
旧五月のアープーリ ( 粟の初穂祭 ) 、旧六月のクムリウガン ( 芋祭 ) 。
旧九月のウガン、ウガンプトキ ( 御願解の意 ) 豊作感謝の祭、
マキレイのウガン ( 粟、麦などの播き入れが終わった頃の立て御願 ) など、
年中行事の祭りを執り行うことが恒例となっている。
この行事は三百年余りも絶やすことなく受け継がれ現在に至っている。




沖縄県多良間島 ・ 平敷屋朝敏とその一族の 「 里之子墓 」

2013-02-27 06:14:13 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



平敷屋朝敏とその一族の 「 里之子墓 」

































里之子墓は、平敷屋朝敏とその子孫の墓で、朝敏の長男、朝良が建立したという。

朝敏は、1700年首里に生まれた和文学者で、
尚 真王の嫡子・尚 維衡 ( 浦添王子朝満 ) の子孫である。
組踊りの「手水の縁」などの作者として知られるが、
尚敬王の時、三司官、察温(具志頭親方文若)一派を批判した文書を
琉球政務の監督者であった薩摩藩吏、川西平左衛門の館に投書したため、
1734年(亨保19年)6月26日、友寄安乗ら15名とともに安謝港で磔の刑に処された。
この多良間島に墓があるのは、朝敏が捕らえられてから処刑されるまで、
この島に流刑になっていたからという。

多良間島は、宮古島と石垣島のほぼ中間に位置し同島と水納島からなる。
同島は東西約八キロメートルで、南北約六キロメートルのほぼだ円形をなし、
標高三三メートルの最高地が島の北側にあり、南にゆるく傾斜する低平な島である。
多良間村誌によると、平敷屋朝敏が安謝港で死刑された事件は、史上有名であるが、
この時、妻と娘は宮城島に流され、
長男の朝良は宮古の水納島に、次男の朝助は多良間島に流刑された。
多良間に流された次男は幼少であったので親戚に養育され、
後に多良間島に流刑された。
その後、水納島から多良間島に移った長男が引き取って共に暮らすようになったが、
朝良は31歳で妻子もないまま死去した。

一方、次男の朝助は、ナカット(嵩原家)の女を嫁にとって一家を立て、
その長男のまからーはマクルヤー(饒平名家)の元祖となった。
次男のじらーはヤマトヤー(平安名家)を立て、長女はウルカヤー(石原家)に嫁いだ。
マクルヤーの分家にはマイッヤー(謝敷屋)、アガリダト(垣花家)がある。
この一門は墓も朝良を葬ったという「里之子墓」を使用している。
この墓には昭和十年に、朝敏夫妻他五人の遺骨も納められた。
遺骨の護送は、沖縄の門中のひとり大宜味氏とマクルヤーの饒平名長建氏によってなされたという。

多良間島と平敷屋では、やや歴史的に違う所もあるが、
その時代に生きた者がいないだけに、どちらの説が正論なのか解らないので、
この経歴は参考までに留めておいてもらいたい。



沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 カーニ里御嶽 」

2013-02-21 06:20:06 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


カーニ里御嶽は、荷川取のカーニ里に所在し、カーニ里の守護神が祀られている。
御嶽の形態は中央に30cmほどの角石をイビ(御神体)として立て、
その前方に香炉の代わりに平坦な切り石を横たえ、これを低い石積みでU字に囲ってある。
その後方にはクロツグ、テリハボク、フクギなどの御嶽林が茂っている。

以前は御嶽のサス ( 神女 ) がいて、サスを中心に里人が揃って祈願行事が行なわれていたが、
サスのなり手が途絶えたため、今は各個人で参拝しているようである。

この御嶽には20数mの細い参道が北側、南側、東側に設けられていて、
参道の両脇には苔むした低い石垣が続き、昔の佇まいを今に残している。
また、この地に仲宗根豊見親の側室が住んでいたと伝わっている。
御嶽の西方門にはゾーヌバン(門番)が立ち、
御嶽を挟む3つの道路は緊急時のピンギミツ(逃走路)と言われている。


所在地 : 宮古島市平良 荷川取


沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 ウプムイ御嶽 」

2013-02-20 06:30:53 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



東に向って建つ御嶽の鳥居







コンクリートで造られたマツカマを祀る祠






西側にある三ヵ所の祭壇









平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


ウプムイ御嶽は、荷川取の里御嶽として民間の医者によって仕立てられた御嶽である。
東に向って鳥居が建ち、御嶽の境内はコンクリートで舗装されており、
その北側に主神マツカマを祀る祠が設けられている。
また、境内の西側には3ヵ所の祭壇があって、それぞれに香炉が置かれ、
真玉御嶽 」 「 ツカサヤー ( 張水御嶽 」 、
「 下地の赤名宮 」 等の神々を遥拝する場所となっている。

御嶽の名称は、御嶽の西側から北側にかけてガジュマルやクロツグなど、
雑木の御嶽林が広く茂っていることから、ウプムイ ( 大森 ) と名付けられたようである。
主な祭祀行事として、旧6月の 「 ユーダミ 」 、旧9月の 「 ユークイ 」
旧12月の 「 トウスヌバンクウニガイ ( 1年の終りの願い ) 」 などがある。


所在地 : 宮古島市平良 荷川取



沖縄県多良間島   「 泊御嶽 」

2013-02-19 00:02:08 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所















泊御嶽は、前泊道路に面して海岸から約50mほどの陸地に位置し、
フクギ、テリハボク、イヌマキなどの生い茂る中に赤瓦屋根の殿がある。
神名は 「 イデミゾウ イリミゾウのマヌス 」 と唱える。

泊御嶽は、運城御嶽とともに嘉靖(かせい)年間に土原豊見親が創設したと伝えられている。
神名は船舶の出入港を守護し給うとの意味で、船守の神として祀っている。

この御嶽の裏側に「クスヌコール」という祠の香炉が設けられており、
創設された時の原型として殿の建造後も拝んでいる。

殿は、乾隆18年(1753年)、当時の多良間島の役人をしていた
白川姓友利首里大屋子によって、かやぶきで建てられ、
明治の終り頃に瓦葺きとして改築された。
また、泊御嶽の周辺は、「とまり山」と称して、
広範囲に樹木が茂っていて防潮林として大事な森林を形成している。




沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 湧川マサリャ御嶽 」

2013-02-18 00:02:46 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



湧川マサリャ御嶽の全景








御嶽内部の拝所







道路側から見た御嶽





平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


湧川 ( ばくぎゃー ) マサリャ御嶽は、人頭税石から約300mの場所にあり、
案内の看板がなければ見落としてしまいそうな御嶽 ( うたき ) である。
ここでの祭神は、湧川 ( ばくぎゃー ) マサリャを祀っている。
話しの内容は、「浦島太郎の琉球版」と思ってもらえればいいだろう。

 この御嶽は 「 宮古の竜宮伝説 」 を伝える貴重な御嶽である。

昔、荷川取村に湧川マサリヤという漁師がいた。
ある日、漁に出てエイという魚を釣ったが、その魚がたちまち美しい女と化したので、
マサリヤは心浮かれて女と夫婦の契りを結んだ。
その後、二・三か月たって、同じ場所で釣りをしていると、
何処からともなく三人の童が現れ 「 母の使いで父を竜宮に案内するために参った 」 と告げた。
サマリヤは不審がったが、童らがマサリヤの手を取って海に入ったかと思うと、
たちまち金銀ちりばめた楼閣の中にいた。
母は前に契りを結んだ女に間違いなく、睦まじき顔でマサリヤを迎え、
三日三夜、色々なご馳走を出して饗応した。
女は別れ際に涙を流し、 「 これをいつまでも私の形見と思って下さい 」 と瑠璃色の壷を手渡した。

 マサリヤは夢の覚めた心地で家に帰ったが、
竜宮でも三日三夜はこの世では三年三ヶ月の月日が流れていた。
瑠璃壷には神酒が入っており、呑めども神酒は尽きることなく口の渇きを癒し、
天の甘露の如き美味な酒であった。
これを呑んだ者は無病息災で長命を保ち、それ故、マサリヤは家宝として秘密にしていたが、
やがて村中の噂となり、大勢の村人が壷を見ようと家へ押しかけて来た。

 マサリヤは富貴におごり「この酒は朝晩とも同じ味でもう呑みたくない」と言ったとたん、
壷は白鳥と化して虚空に舞い上がり、東方をさして舞行きて、
宮国村スカブ屋の庭木に留まり、姿を消したという。

 また『 平良市史 』 には、少しニュアンスの違うお話となって残っている。
昔、唐から流れ着いた人がいて壷を持っていた。
島の人を娶り、暮らしていたが、畑に出ても用意した食糧を食べる事もなく持ち帰る。
不思議に思い、妻は昼時に畑に行き様子を窺うと壷から次々と取り出して食べている。
驚いて声をあげたとたんに、壷は羽が生え宮国の方へ飛んでいった。
近くには海に流れ出る水の湧き口(ばくぎゃー)あり、御嶽の名の由来とも伝わる。


所在地 : 宮古島市平良 荷川取



沖縄県浦添市  ・  組踊をつくった 「 玉城朝薫の墓 」

2013-02-17 00:24:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



組踊をつくった 「 玉城朝薫の墓 」








亀甲の石がきれい組まれている







前田トンネルの上に玉城朝薫の墓がある








首里の末吉公園にある 「 劇聖・玉城朝薫生誕三百年記念碑 」







孔子廊の横にある「 沖縄芝居顕彰碑 」












沖縄県浦添市前田にある国際センターの近くに玉城朝薫の墓がある。

玉城朝薫 ( たまぐすく ちょうくん、康熙23年8月2日 ( 1684年9月11日 ) ~
雍正12年1月26日 ( 1734年3月1日 ) ) は、琉球王国第二尚氏王統の人。
向氏辺土名殿内十世で唐名は向受祐 ( しょうじゅゆう ) 、童名を思五郎といい、
尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。

中国からの冊封使をもてなすために踊奉行に1718年任命された。
奉行職就任後は翌年の重陽の宴にあたり初めて組踊を創作し、上演した。
また歌三線にもすぐれ、湛水流を向日長・新里親方朝住に学び、
それを子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜に伝えた。

なお朝薫が創作した組踊は朝薫の五番とよばれ、
「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「銘苅子(めかるしぃ)」「孝行之巻(こうこうのまき)」
「女物狂(おんなものぐるい)」「二童敵討(にどうてきうち)」がそれである。



玉城朝薫の墓は正確には玉城朝薫個人の墓ではなく、
朝薫を含む向氏辺土名殿内の歴代墓(家族墓)である。
辺土名殿内は、琉球王国末期には
国頭間切(現・国頭村)辺土名村の脇地頭(一村の領主)を務めたが、
玉城朝薫存命の頃は、玉城間切(現:南城市(玉城地区)) の
総地頭職の地位にある大名家であった。

墓の概観は、亀甲墓の祖型をなすといわれる独特な形をしている。
屋根は戦災で消失したが、戦前の写真から亀甲形ではなく、
羽地朝秀の墓同様、かまぼこ形をしていたことが明らかとなっている。
墓室正面の左右に拡がる袖石(に相当する石垣)は、
亀甲墓のような屏風状に直線が折れ曲がる形式ではなく、
緩やかな弧状を描きながら左右に拡がっている。
墓口前には、幅48センチメートルのサンミデー(供物台)があり、
墓口から約5メートル先には、墓庭を区切る縁石が外へ少し張り出しながら弧状に敷かれており、
袖石とこの縁石に囲まれた墓庭部は撥(ばち)のような形をしている。
墓庭は縁石部から外側より一段高く形成されている。
墓庭の更に先には石段があったと推定されるが、戦災で消失している。
袖石の外側には一段低くなった石垣が少し続いているが、これも戦災で失われたのか、
途中で左右非対称に途切れている。
墓庭の外には石碑の台座が残されているが、碑身は戦災で失われている。

墓室内部は、幅2.39メートル、奥行き2.73メートル、
面積6.52平方メートルで、およそ4畳半の広さである。
室内の壁は相方積みによる石壁(石材は琉球石灰岩)である。
宜野湾御殿の墓のように漆喰で化粧はされていない。
天井の高さは約1.8メートルで、天井を支えるために四本の石柱が墓室内に設置されている。
このタイプは「摩文仁家の墓(摩文仁御殿の墓)」と同様で、珍しい構造である。
石柱頭には二本の石梁を渡し、天井石版を支えている。
天井石版は「ニービの骨(細粒砂岩)」製である。
墓室正面奥には幅62センチメートル、高さ70センチメートルの石棚があり、
玉城朝薫の厨子甕(蔵骨器)もそこに置かれていた。
この石棚の更に奥に幅78×奥行き70センチメートルの小さな玄室があり、
その中には遺骨がそのまま葬られている。

墓室内から厨子甕は、合計24、5基確認されているが、
戦災で墓室の一部が破壊され、そこから土砂が流れ込んだために破損した厨子甕もあり、
正確な総数は不明である。
内訳は、石製家型厨子が一つ、他はすべて陶製厨子甕である。
陶製はすべて甕型で御殿型(家型)は一つも含まれていない。
玉城朝薫の厨子甕はマンガン掛け厨子甕である。朝薫の厨子甕も含め、
かつて総地頭家であった名家にしては全体に質素である。
他に墓室内から墓中符が一つ見つかっているが、造墓年などは書かれていない。


玉城朝薫旧墓「一ツ墓」玉城朝薫は首里石嶺町にあった、
俗に「一ツ(一人)墓」と呼ばれる個人墓に葬られていた。
1899(明治32)年に前田の墓の厨子甕整理が行われたらしく、
その際に石嶺の墓から朝薫の厨子甕が移葬されたと推測されている。
移葬後、一ツ墓は空き墓となったが昭和初期まではまだ残っていた。
王国時代、個人墓はハンセン病患者など特殊な事例に限られており、
朝薫が個人墓に葬られたのは当時としては異様な出来事であるが、
なにゆえそうなったのかは不明である。
また、厨子甕の銘書から洗骨が死後71年後の1805(嘉慶10)年であったことが判明しているが、
これも通常の洗骨年(3~7年)から考えると異例である。

玉城朝薫の墓は、亀甲墓の祖型をなす墓と位置づけられているが、
造墓年は護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)より以前であったのか、
正確には分かっていない。
沖縄戦で墓本体の上半分が吹き飛ぶなど、大きな被害を受けた。
1988(昭和63)年に本格的な発掘調査が行われ、
1995(平成7)年に浦添市の史跡に指定された。
2005(平成17)年、修復工事が行われ往時の姿によみがえった。



沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 真玉御嶽 」

2013-02-15 05:40:39 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


真玉御嶽 ( 真玉神社 )

祭神
男女神かねとのまつ免か(御嶽由来記)
ウンキヌス(運気主) ユーヌカン(世=豊穣の神) 水ヌ主(竜宮の神) 子宝の神

由緒
昔、御嶽内には井戸(泉)があって、またガマ(洞窟)があり、気立ての優しい夫婦が住んでいた。
神として祀られている。
 
また宮古で初めて潮水でアイズゥ ( 和物 ) を作った神として祀られている。
 『 御嶽由来記 』 は真玉御嶽の祭神を 「 男女かねとのまつ免か 」 と伝え、
貧しい夫婦であったが、ふだん怠りなく精進し朝夕天道を拝していたので
神徳が降り子孫繁盛し富貴の身となった。
夫婦とも白髪の翁となるまで天道を祈り天寿を全うしたので、
死後真玉山に葬り御嶽を仕立て神と崇めた。
子孫繁栄の神として崇敬されていると伝えている。

 今日でも子宝の神として、また人の運気を司リユー ( 世=豊穣 ) を授ける神、
航海安全の神として祀られている。