大分県の山国町から福岡県の添田町の英彦山に通じる国道496号線沿いに
献体解剖に申し出た山本登久の看板がある。
山本登久の墓
ここより少し下りた所に山本家の墓地があり、
その一番奥が山本登久の墓である。
登久は小屋川村の山本佐平の妻であり、47歳で死去。
上腹部の腫瘍におかされ、生きるのぞみもないことから
「 私が死んだら私の体を解剖して医術の進歩に役立ててほしい 」 と、
熊谷静雄医師に申し出たため、明治19年5月12日県庁の許可を得て、
熊谷静雄、山永得二、両医師が死後翌日に解剖した。
記録は峰 貢、三好玄次、清田保弘が担当し、
解剖には9時間を要したと墓に記されている。
中津で初の献体解剖が明治22年であることから、
九州では最も早い時期の献体解剖であっただろうといわれている。
山あいの地、山国にあって献体を申し出た登久の志は素晴らしいものであり、
現在に伝える話として私たちの胸を打つばかりである。
山国町教育委員会
こんな山奥で暮らしながら、医学の発展のために献体した女性が居ること自体が驚きであった。
尽くした亡骸も魂も故郷山国の地で静かに眠っている。
僕ら後世に残る者は、登久の気持ちを埋もれさせてはならないと思っている。