デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



アルテマイスターで最も私が見たかった作品を見たとき、この絵が「現実に」存在していることに、自分の中で何か重要なことに立ち会っているような気がした。


クロード・ロラン「アキスとガラテアのいる風景」(1657)

この絵は、ギリシア・ローマ神話にある場面を描いたものだ。海の女神ネレイデスの一人であるガラテアに求婚して断られた一つ目の巨人ポリュペモスが、ガラテアの恋人であるアキスに岩を投げつけて圧し殺し、ガラテアはアキスの血を川に変えて海に戻るという話だが、絵にはアキスに死が迫りつつあるときの、つかの間の一時が描かれている。
で、この絵をなぜか「黄金時代」と呼んでいたのがドストエフスキーで、作家の後期長編など(『悪霊』『未成年』『おかしな人間の夢』)には、この絵と絡めた作家がかつて抱いていたユートピア観が綴られているのだ。荒っぽいようだが、その世界観を要約すると
「はじめに黄金時代ありき。懲罰者なく掟なく、
おのずからなる忠誠と、正しき心のみありぬ。
刑罰もなく恐怖もなく、掲げし真鍮板に記したる
威嚇の言葉さらになく、判官の言におびえたる
嘆願者らの群れもなし。復讐者なくして泰平の世なりき。
山の上なる松の木も、伐り倒されて曳かれゆき
海原を行く船となり、遠つ国見たることはなし。
ひとみな知るはただひとつ、おのが生まれし岸辺のみ。」
   オウィディウス『変身物語』
という世界の再来に加え、
「他人の生活と幸福のためにひどく気をつかうようになり、そしてお互いに相手に対してやさしくなって、今のように、互いに相手を子供みたいに愛撫しあうことを恥じなくなるだろう。会えば、互いに理解ある深い目で見つめあい、その目には愛と愁いがこもっている……」
   ドストエフスキー『未成年』
といった世界観だろうと思う。
ドストエフスキーを集中的に読んでいたころ、私はこの世界観は実現不可能であること、そして「かつて理想に燃えたことに対する幻滅と感傷」に、勝手ながら一人共感した気でいたし、今もそうだと思う。
実際の絵の前に立ったとき、絵の前まで足を運ばせた作家の力は、私の中ではとても大きいのだということを改めて自覚した。誰も傍に寄ってほしくないと思ったのと同時に、誰かに絵とドストエフスキーのことについて語りたくなった衝動とが渾然一体となった。
私はわざと絵から少し離れて、美術館を訪れる人がこの絵の前にいるときに話しかけて、どんな印象を受けるのか知りたいと、今から思うと浅ましいことを考えていた。(さすがに人様への迷惑行為は控えた(笑))
毎度のごとく美術館を出る前に何度もこの絵の前に立った。ときどき行われる学芸員の解説に耳を傾け、ドストエフスキーのことが話に出ないかなと期待しつつ…。

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