デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



昨年、トーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』を読み、今年の春に同じくマンの『ファウストゥス博士』を読んだのだが、よくよく考えればどうしてマンの作品を読もうと思ったのかといった動機をしばらく忘れていた。
映像詩のジャンルを拓いた映画監督にアンドレイ・タルコフスキーという人がいて、以前『タルコフスキー日記』という本を読んだことがあるのだが、その中で監督が何度か映画化したいと綴っている作品の中に、マンの『ヨゼフとその兄弟たち』と『ファウストゥス博士』があって、どんな作品なんだろうかと思っていた、それが今回の読書につながったのだ。
タルコフスキーはもう他界しているので、作品が監督の手によって映画化されることはない。
『ヨゼフとその兄弟たち』と『ファウストゥス博士』を読んでみて、やっぱり監督が映画化した作品を見たかったと思う。とくに『ヨゼフとその兄弟たち』はきっと大長編になっただろうなと想像しつつ、『ファウストゥス博士』では「あいつ(悪魔)」をどのように描くのだろうかと怖いもの見たさをはらませつつ。

ところで『ファウストゥス博士』自体の感想なのだが、、、難しかったけどおもしろかった。解説にもあったことだが、この作品には音楽芸術における「打開」がテーマになっていて、そのテーマは作品の骨子である悪魔と手を結ぶ主人公とその芸術作品を生み出す創造力、そしてドイツの中世の民衆本で現代のドイツ人の心にも深く?根ざす(文化といってもいい)「ファウストゥス博士」といった“ドイツ臭さ”が、密接に見えづらいが作品の根幹に絡み合って流れるように語られていて、よくこんなふうに書けるなぁと、驚愕した。そしてストーリー自体、古典を踏襲していることもあってか、とてもおもしろい。ファウストゥスというのが、どんな話なんかいな?といったことを知っていたら、よりたのしめるだろう。
あと、注目すべきはマンが作品のなかで、ナチスドイツが連合軍に追い詰められていくことにふれ、故国に対する哀歓と愛情・ドイツ精神の素晴らしさともろさを葛藤を隠すことなく「自伝」として綴っているところだ。作品のストーリーも大事だが、作者の苦悩もぜひ読んでいただきたい。そこには天才のマンじゃなく、人間のマンがいる。

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