デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



一人の人間のすることは、いってみれば万人のすることです。ですから、ある庭園で行なわれた反逆が全人類の恥となっても、おかしくはないわけです。また、一人のユダヤ人の磔刑が全人類を救っても、決しておかしくはないのです。ショーペンハウアーのいったとおりだと思いますよ。わたしはべつの人間たちであり、どの人間もすべての人間であって、シェイクスピアは、ある意味で、卑劣なジョン・ヴィンセント・ムーンなのです。
ボルヘス『伝奇集』


N・ホーソーン『緋文字』読了。
作品はテーマがしっかりしているだけに読みやすく、序文を除き章の長さが丁度よくて続きが気になる分量で収まっているから、うまく書かれていると思った。
ただ、ボルヘスの上の言葉を先に読んでいたゆえ、『緋文字』はボルヘス作品への段階の中ごろに位置する作品だと少々冷めた感じで覚えたのは正直なところである。なんというか、『緋文字』は17世紀のアメリカ北東部の清教徒社会を舞台にした、ウルトラニスモの追究の黎明を告げる文芸作品であり、ドストエフスキー後期作品のさきがけであったように思った。
なんらかの罪とされる行為に及んでしまった人間の、後悔や苦悶や悔悛とはなにかを読者に考えさせるという点では、作品は成功をしている。しかし、いち読み手としては、たしかに世間を騒がしたことはそうだが、嫉妬深くて他の神に横目を使うことを許さず清廉さだけを強要するキリスト教の神に対してなぜゆえにそこまで繊細すぎるのか、よく分からない部分もある。読んでいて、ジッドの『狭き門』のアリスを思い出し、むしずが走る自虐・自嘲としての痛々しさは、ときに滑稽に映ってしまった。
滑稽に映る理由としては、19世紀の人間による、17世紀を舞台にして書いた小説であることで、19世紀の価値観が混入し、かつ一見自己卑下したような表現で表明されている作者の立場が実は「誰よりも独立した上から目線」でもって貫かれているからかもしれない。おそらく、作品内の事件を詳細に取材したノートをそのまま紹介する(当時の因習の真っ只中にいた人間の記録)、という形での構成ならば、もっとスリリングになるように思った。

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