デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



シャーロット・ブロンテ(妹のエミリー・ブロンテは『嵐が丘』の作者)の『ジェイン・エア』を読んだ。
昔のテレビアニメに登場するような不幸な境遇の薄幸な少女が卓越した自立心でもって成長していく物語。昔のPTAが少年少女に読ませたい物語として、挙げたがるような典型的な作品かもしれない。
19世紀にこの作品が成功した理由としては、特に当時の世相のことを検討するといろんな要素があったのだろうと思う。私は主人公の不幸と幸福が交互にやってくることでマンネリ化を防いだこと、そして読者にあまり深く考えさせない主として事実だけを追っていけば読める内容になっているところが広く親しまれたのではと思う。物語を物語らしく、物語であればこそできる理想を盛り込んでいる、映画にもなりやすい、読者がそこそこ喜ぶような作品といえるかも。
作品の中でとりわけ印象に残るのが、豊かな自然描写だ。現地に行ったら、さぞ美しいところだと感じることだろう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




前の会社の友人と、地下鉄と自分の足をフルに利用した、なるべくお金をかけない京都桜見物に出かけた。
昨日は散り始めの桜だった。天候、桜の咲き具合、そして突風による花びらの舞いや散り具合、こんな桜見物はそうそう叶わないのではないかと思う。


知恩院の三門にて。折からの突風でまさに桜吹雪、奇声あげてしまった。

三門の桜吹雪(大きい画像での表示、容量重いです)



三門を境内から



親子連れ



半木(なからぎ)の道にて、ここはまだ五分咲き



マクロ機能の設定のまま撮。結果オーライだった。



水面(みなも)



国際交流?



蹴上(1)



西日の水路閣



南禅寺にて



傍で経を唱える御仁がいて、恐縮してしまった



苔と花びらの絨毯



極楽への門?



蹴上(2):インクラインの線路跡



疏水と桜と錆びた橋



疏水の桜



またまたまた、いつもの場所

おみやげ屋さんで、お試しのシソの香りのする緑茶を飲んだとき、塩っけがあんなに旨く感じるなんて…本当によく歩いた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




館内をぐるぐる回っているうちに、バルビゾン派の絵画として有名なコローの部屋に来た。


カミーユ・コロー「シャルトル大聖堂」(1872)

今や世界遺産となっている聖書の物語のステンドグラスで有名な、ゴシック建築の代表作シャルトル大聖堂の昔の姿だ。
私の好きな小説『失われた時を求めて』で登場する聖堂のモデルの一つとされる大聖堂、よくぞ描いてくれました、と勝手ながら思った。
コローの絵は「モナリザの娘」と言われることがある「真珠の女」、「絵を描く自画像」「青い服の女」「コローのアトリエ、マンドリンを持つ女」「ドゥエの鐘楼」そして「モルトフォンテーヌの想い出」などなど、詩情に満ちた素晴らしい作品がたくさんあったが、カメラのメモリを節約したため画像には残さなかった。(絵自体は一般の図版でもよく載っています)

もう一度、クロード・ロランの部屋まで戻り、時代順に順路を進めると、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋があった。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「燈明の前のマグダラのマリア」(1640-46頃)



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「大工聖ヨセフ」(1640頃)



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「聖イレーネに介抱される聖セバスティアヌス」(1649頃)



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「いかさま師」(1625頃)

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは近年ようやく脚光を浴びてきた画家で、それまでは忘れ去られた画家だったそうだ。
ラ・トゥールの絵にみられる明暗の特徴はイタリアのカラヴァッジョの影響を受けているが、カラヴァッジョの劇的で動的な効果はラ・トゥールにはない。ラ・トゥールは激しい動きを消し去りって見ている人間を静かな世界へと導くような感じだ。またラ・トゥールは闇を多く描くことで光(炎の照明自体)をより現実の物のように見せているところがうまい。
私が特に好きなのは「大工聖ヨセフ」と「いかさま師」だ。「大工聖ヨセフ」は神とか天使とか天井の光とかが出てこず、一般人のおじさんが暗い中黙々と仕事に精を出す姿を横の子供(幼キリストもしくは聖霊)が一本のロウソクの光で照らし出しているという簡潔さでもって、ヨセフの人なりの全てを静かに表現している。まるで言葉は要らず、行動で語るといわんばかりだ。
「いかさま師」は人物の光の当て方がカラヴァッジョの影響を受けている頃のものなので、ロウソク一本の照明と暗闇を描くほどの技巧には達していないが、いかさま師たちの表情がとてもそれっぽいところがいい(笑)。左の男はカードを仕込み、中央のマダムは飲み物を注ぎにきた「仲間」のサインを横目窺っているみたく、次の手を下そうとしているかのようだ。ということは右端の大きいオレンジの羽飾りを頭につけた男がカモで、彼は三人にどれほど巻き上げられるのか、そこはもう想像次第。

ラ・トゥールの部屋の次に続く大きい部屋にはやたら大きい絵が壁一面にドンと展示されていた。そんな大きい部屋の端っこの方に、見たことのあるような人物が…。


セバスティアン・ブールドン「デカルトの肖像」(1629-1649?)

デカルトが座標なんてものを考え出したから苦労したんじゃ!と数学嫌いな人は思っているかもしれないが、上のデカルト氏、なんかむちゃ顔色悪い…。デカルトって体がそんなに丈夫じゃなかったとか聞いたことあったので、画家の目にもそんな風に映ったのだろうか。



上の絵は誰が描いたのかメモを忘れたのだが、色合いがきれいでリアルな人物が雲に乗っている姿が妙に印象に残った作品だ。私の想像では聖人の幻視の絵だろうと思っているが…



上はヴェルサイユ宮殿の建造に多大な貢献をしたシャルル・ル・ブランの絵だったと思う。ルーヴルにはル・ブランのアレクサンドロス大王の戦いを描いた大作がいくつかあって、これもその一つだったと記憶している。

以下の四枚も大作で、ジャン・ジューヴネの作品だ。どれもが聖書の一場面を壮大なスケールで描いてある。


きっとキリストの奇蹟、病人や墓からしてラザロの復活の場面だと思う



赤子姿のキリストからして東方三博士の礼拝の場面だろう



大量の魚からして、キリストによるガリラヤ湖の魚の奇蹟だろう



十字架降下の場面

最後から二番目の「大漁」の絵は、ロシアのサンクト・ペテルブルグにあるエルミタージュ美術館にも巨大なタピスリーとして壁にかかっていたりする。フランスの絵画がタピスリーの図柄になってロシアに届けられたのか、それともロシアで作られたのかは分からないが、18世紀のフランスとロシアとが芸術の面でも地続きであったことを改めて学んだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )







夜7時から落語を聞きに行った。おもしろかった。私も大笑いしたし、会場は大爆笑だった。
狭い会場での臨場感は、どう表現したものか。落語家って本当にしゃべりのプロだなぁと思った。通る声で活舌で聞き易く、客にとって身近な親しみのある話題を別角度から上手く笑いに変えるキレの良さは本当にすばらしい。


「愛宕山」を終えた桂よね吉さん

三人の噺家さんが登場した。「道具屋」を桂佐ん吉さん、「田楽食い」を桂阿か枝さん、「七段目」と「愛宕山」を桂よね吉さん、すべて古典落語で昔のほのぼのした時代を髣髴とさせる雰囲気が出てて、聞いててとても心地よかった。
生の古典落語を聞くのは約15年ぶりくらいか。そのときは桂米朝さんと今は亡き桂吉兆さんの寄席をたまたま無料で聞けた。上方落語界のすごい人だということで、おもしろかったが貴重な体験でありがたいという意識が先行していた。
その頃からすると、噺家の威光だけでなく噺自体を楽しめるようになったかも。雨でウクレレ弾けなかった昼間だったが、笑って終えられる一日になった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日は昼から雨、いやな天気やけど、携帯の説明聞きに自転車走らす~
本当なら週末いつもウクレレ弾いてる場所で、同じように弾いていたかったが、花見の時期に加えて土曜日ということで、あちこちからの花見客で川沿いが人だらけ。また雨まで降ってきたので、結局ウクレレ持ったまま自転車を走らせただけで終わってしまった。雨の日に練習できる屋外の屋根つきのところも、炭火焼でバーベキューしつつも静かすぎる二人連れがいたので、立ち去った。
というわけで、今日は図書館の本を借りに行ったり、携帯電話のショップまで行って雑事を済ませた日となった。

これまでずっと使っていたプリペイド式携帯電話の機種のバッテリにガタが来た。残量の減り方が尋常ではなくなった。プリペイド式で一ヶ月1500円分の通話でも、ほとんどメールでのやり取りしかしない私にとってみれば充分すぎた。でもバッテリのガタはどうしようもない。
とうとう私も月初めに新しい携帯電話を手に入れた。というより入れざるを得なかったのだが。
手にするまでに各社の料金プランを検討しまくった。
本当のことを言うと、携帯は持ちたくない。家のパソコンのネット料金もあるのに、携帯は一ヶ月強制的に基本料を取られるだけでなく、使えば使うほど料金がかさむ。パケットやWebし放題とかあるが、結局は基本料金を上乗せした料金に加えて、パケット一つ当たりの単価が安くなるだけのものだ。
でも、いつか添付画像や音声ファイルの引っ付いたメールを受け取るかもしれない。そんなわけで、添付画像や音声ファイルを受け付けなくする方法をショップに訊ねに行ったのだ。
説明を聞きながら、吝嗇な話だなと自分でも思ったが、でも自分でどこかで規制をかけないと湯水のごとく携帯料金が膨れ上がるだろう。気をつけねば。
というわけで、私の新たなる携帯生活がスタートした。携帯に詳しい方、いろいろ教えてください(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






春ですねぇ

「春なので出てきました(トカゲの画像)」



いつもの場所。枝の先も半分以上咲き始めた。



明日は曇りか…



着物の方にはやっぱり目が行きました…

西日にもろにあたり続けたせいで、日焼けして顔面痛い…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日(4/3)の夕刻、やっぱり晴れているときの桜を見たいということで、帰宅遅れるの覚悟で思い切って自転車を遠くまで走らせた。
京都の桜は六・七分咲きのものと九分咲きになっているだろうと思えるものが混在している感じだった。
それにしても晴れたのに冷えた…寒かった。


知恩院(1):昨年とほとんど同じポイントにて



知恩院(2)



知恩院(3)



知恩院(4)



蹴上(1):京らしさはこうでないとと思ってしまうような



蹴上(2)



蹴上(3)



蹴上(4):モデルさんの撮影だとか



蹴上(5)



蹴上(6)



南禅寺(1):水路閣1



南禅寺(2):水路閣2



南禅寺(3)



南禅寺(4)



疏水(1)



疏水(2)



疏水(3)



疏水(4):昨年とほとんど同じポイントにて



疏水(5)



疏水(6)



鴨川(1)



鴨川(2)

京都の桜、見ごろは今週末から来週みたいです。みなさま、京都に限らず桜のきれいなお薦めスポットを、ぜひ教えてくださいませ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




外国の大きい美術館では特殊なスペースもあったりする。たとえば美術館に対して多大な寄付や寄贈などで貢献をした人のコレクションが、貢献した人の名前でホールやスペースが設けられて作品が展示してあったりする。そのスペースは美術史を基にした系統などは意識されてなく、極端なたとえでは一つの部屋内にボッティチェッリの横にエル・グレコの絵が飾ってあったりするおもしろさがある。
ルーヴルにおいて個人コレクションの展示があるのかは知らないが、それっぽいようなスペースがあった。人は少なく、監視員の人も暇そうにしていた。


左にフランス革命期の画家ジャック・ルイ・ダヴィッドの「ド・ヴェルニナック夫人の肖像」(1798-99))が
右にスペインの画家ゴヤの「ラ・ソラーナ侯爵夫人(カルピオ女伯爵)」(1794-95)が見える

ナポレオンの姿を数多く描いたダヴィッドの絵のほとんどは、フランスの革命期美術やロマン派美術とともにドゥノン翼のグランドギャラリーに展示されているのに、「ド・ヴェルニナック夫人の肖像」だけシュリー館の特別な一室にあったりする。作品は豪華な生活に身をやつした夫人の退廃的なところが、非常によく表れていた。
ゴヤの「ラ・ソラーナ侯爵夫人」…。なんて静かでさみしそうな絵なんだろうと思った。ゴヤは侯爵夫人の死の数ヶ月前に描いたそうだ。侯爵夫人は自分が重い病気であることを自覚していたが、ゴヤは決して理想化することなく死の近い侯爵夫人のありのままを描いた。画像では伝わらないが、これはよく画集でも載っているので、機会があればぜひ見て欲しい。
この部屋には他にロシアのピョートル大帝の肖像も手がけたことのあるジャン・マルク・ナティエの手による貴族の夫人を伝説の女神に見立てた作品があったりした。


カナレット「リアルト橋」



カナレット「救済教会」

18世紀にヴェネツィアで活躍したカナレット(1697-1768)の絵もあった。カナレットというのは通称で、本名はアントニオ・カナルという。
カナレットの絵は明るく詩情豊かで、「現在のヴェネツィアですよ」と言われても、違和感を感じないくらい写真みたいに思えてしまう。理想化された風景を描いたロランの絵画とはまた異なり、カナレットの風景画は旅行パンフレットに用いられてそうな飛行機にさえ乗れば手が届きそうな旅情をくすぐらせる。カナレットの絵を見て、あぁ、ヴェネツィア行きたい!と思う人もいるのではと思う。


(画像をクリックしたら大きい分が表示されます)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »