7月4日(火)です。4年生のゼミ授業の一環で、標記の見学に行きました。ゼミの高橋さんが地元の過去の書家で実業家だった三木雲城の書の研究をすることになっているためです。以前からゼミで行くことを約束していたのですが、教育実習もあってなかなか全員そろわず、ようやくこの日に行くことができました。交通は私と漢那さんの自家用車2台です。
場所は、松茂町の高速バス停から100mほど北に進んだ場所にあります。まずは浅草観音を三木家が勧請した観音堂を訪問しました。この境内に名碑が2基あります。一つは日下部鳴鶴の揮毫した「三木家先世遺徳碑」です。明治33年の揮毫です。題額は最後の徳島藩主だった蜂須賀茂韶が書いています。
その西側に立っているのが、幕末から明治期の三木家を支えた三木與吉郎順治(みきよきちろうよりじ)が自ら揮毫した「普門品碑」です。明治35年の揮毫です。二つとも巨大な石碑です。
彼は、実業家・政治家・書家・俳人・剣道家など、さまざまな顔を持ったマルチな人物で、地域の代表者として活躍しました。貴族院議員だったので、当時の日本の有名な書家や人物たちとも知り合いでした。妙法蓮華経の観世音について述べた部分(普門品)を楷書で書いたのがこの碑です。熱心な観音信仰者で、ついに東京の浅草観音を勧請して、自宅に寺まで建ててしまいました。それがこの寺です。本堂に参拝しました。堂内外に架けられている扁額は、刻字看板の好例で、文字は東京の浅草観音の住職などが書き、「かまぼこ彫り」が施されています。
この後に、道路の向かいにある春日神社を訪問しました。この本堂の裏側にあるのが「敬渝碑」です。安政南海地震のこの地区の被害や対策について述べた内容を、三木家の菩提寺の呑海寺住職が揮毫しました。この書は欧陽詢の楷書にそっくりです。題額は新居水竹が篆書で書いています。そして三木家の当時の当主である三木與吉郎光治(みつじ)が建立しました。
この後に、近くの松茂町とくとくターミナルで簡単な買い物をしてから帰学しました。天気が良かったので、良い見学会ができました。