4月26日(土)、午後、大滝山の滝の焼餅「和田の屋」さんに行きました。ここは、4年前から、時々訪れている大好きなお店です。
この店の前には駐車場が少ないので、近くの天理教寺院の奥の駐車場をお店では借りていて、客は駐めることができます。
この駐車場のある場所は、明治時代に迎賓館があった場所で、隅にある壊れたレンガ作りの倉庫のような廃屋は、初代の県知事、井上高格が客をビリヤードでもてなした3階建ての洋風建築だったそうです。この建物は基礎はしっかり残っていますので、もし当時の形で再現したら徳島の新名所になることでしょう。
和田の屋の社長さんのお話では、幕末の慶応3年(1867)8月に英国公使ハリー・パークスと、書記官アーネスト・サトウが、長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の調査で大阪から土佐・長崎に船で向かう途中に徳島に立ち寄り、当時の藩主蜂須賀斉裕が彼らをもてなした場所は、徳島城以外では、二軒屋の観音寺と、もう一つは持明院だったということです。サトウの日記には、「練兵場からの帰途、見晴らしの良い丘の上の寺で昼食をごちそうになった。」と書かれているので、おそらくはこれが大滝山の持明院と思われます。徳島が昭和20年に空襲で焼ける前までは、滝の焼餅の少し上に見晴らしのよい料亭があったそうですから、実際の食事はそこでしたでしょう。二人の重要なイギリス人については下記をご覧ください。
この時、斉裕は、サトウに「自分は隠居してイギリスに行くつもりだ」と述べたといいます。残念ながら約半年後の慶応4年(1868)1月に斉裕は亡くなり、この夢を果たさずに終わります。その年の秋から明治元年となりますので、人生はままならないものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%96%89%E8%A3%95
この前の森は、当時の持明院の庭園のなれのはてで、自然のままの山ではなくて実は銘木が植えられています。今日、たいへん美しく咲いていたこの藤の木も、おそらく当時に植えられて、野生化したものでしょう。この大きな房は、野生種ではなく、明らかに栽培種です。パークスやサトウが来た時は8月ですから藤は咲いていませんが、この山の美しい景色を眺めたことでしょうし、食事の後にこの庭園も鑑賞したのではないかと思います。
藤の木の下には、楓が植えられています。緑の楓も美しいです。
さらにその下には、清らかな水路があって、石の橋が渡されています。よく見ると、この水路は、書道作品の「蘭亭序」に登場する「曲水」そのものなのです。
かつてはここで「流觴曲水」の遊びが行なわれたはずです。 水路の周りに文人が座って、酒を飲みながら漢詩や和歌を詠みあうのです。この水路は湧水が流れているようで、清ら かで、またカワニナが住んでいますので、おそらく蛍も発生するでしょう。秋には楓が紅葉して美しいはずです。
極めて美しい日本庭園です。ここは、今はあまり注目されていませんが、徳島城庭園に並んで徳島を代表した名園の名残の場所です。一度ご覧くださいませ。
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