1月21日(土)、朝、散歩に行きました。今住んいるところの近くに「田宮天神社」があります。
この天神社は、江戸時代には、大宰府天満宮、京都の北野天満宮に次いで日本全国に知られた天神だったそうです。今は、そこまで有名だったことは信じられないほど、普通よりもちょっと大きいかなと思うぐらいの神社ですが、江戸時代中期から、明治30年代までの徳島は、人口規模で、日本の10本の指に入っていた大都市でしたので、そういうことが有ってもおかしくありません。
伝説によれば、菅原道真が時平の讒言によって大宰府に左遷が決まって、直後に難波から船で出港し、須磨・淡路島沿いに船旅をしますが、春の嵐に遭遇し、阿波別宮川(現在の吉野川)から雪の浦に漂着し、現在のこの地に滞在した。住民たちが様々に旅情を慰めたので、道真は深く喜んで約6ケ月間滞在し、その間に村の子供たちに儒学と書道を伝授する学校を開き、和歌を残されたということです。道真が大宰府に行ってから、彼はここを「阿波の旅屋」と懐かしがって、阿波の人々もここに社殿を作り、この地を「旅屋村」と唱え、これがのちになまって「田宮村」となった。学校の跡は「菅原寺」とした。1585年に蜂須賀氏がこの地に入国し、この寺社を保護し、発展したというものです。
この伝承には、眉唾な部分もあるのですが、道真に対する深い尊敬が長く続き、この寺社が発展して、全国的にも有名だったことは確かなようです。ここには連歌堂も作られ、月例の連歌会が行われたり、祭りでは競馬や相撲大会も催されていたそうです。
現在は道真のレリーフが石に彫られ、飾られています。社殿も改築されて立派です。昭和初期まではこの神社の境内に小学校がありました。
道真は若いときに讃岐の国司として、現在の香川県にも数年住んでいたので、徳島にとっても親しみやすい人だったと思います。実際にこの地に半年も住んだかどうかはわかりませんが、大阪から福岡へ船旅をする途中に嵐を避けて立ち寄ったことは十分あり得ます。後の源平合戦の時に屋島の戦いに船で向かった義経が嵐に流されて徳島の南部の海岸に漂着し、そこから山を越えて屋島の裏側から平家の本陣を攻めて勝っている事実もあるからです。
道真は悲劇のヒーローでしたが、彼が死後に学問の神になって、子供たちの学問に力を与え続けたことを、彼自身は今喜んでいるのではないかとも思います。また、日本に「学問の神」なんていう存在があること自体がとてもすてきなことだと思っています。
すごいなあと思いました。
菅原道真さんの書など、残されているのでしょうか、
見てみたいです。