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山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

アイデンティティー

2007-11-07 00:30:58 | 未分類過去
この言葉は、なかなか日本語で言い表すには難しい気がする。

故郷の小学校の同窓会などに出ると、“自分は何者なのか?”という妙な気持ちにとらわれる。
確かに、その故郷の小さなに生まれ育ち、その仲間であり、懐かしく、気心がしれていて、自分をその中の一部であると確信できる。

しかし、どこか違う。
そのまま故郷に暮らし続けて来た仲間とは違うのである。

おそらく、生活習慣も価値観もどこかしら違うような気がする。

田舎では、みな一戸建て住宅を買い、1人1台の車を所有するというのが普通のようだ。
そして、子供は大学に行かない場合が多い。
地元の高校を卒業して、適当な仕事につく。
だから、同級生の子供はもう就職している人が多く、経済的にも余裕がある。
故郷で大卒の人というのは、いるにはいるが、公務員か教員一家が多いようだ。

東京のように子どものお受験に力を注ぐような人は滅多にいない。
だから、子供が小さいときから保育園に預けて共働きをする人も多い。
それで、意外に女性もしっかりとした仕事を持ち、安定した収入を得ている。

一戸建ての家を所有し、てきぱきと働き、
安定した家庭生活を送っているという印象がある。

それに比べると、自分は何をやっているのかと思う。

子どもの教育の点では、私は東京人のように熱心な育て方はできなかったし、
自分自身の仕事も中途半端だ。
大した収入もない。

田舎に帰ったところで、いくら安いと言っても家を買えるような余裕はないし、
車の免許もなし、車を所有する経済力もない。

今だに勉強し続けなければ、今の職場で人並みに仕事をすることもできない。

同じ小学校から大学に行った同級生は、ほんのわずかである。
同窓会出席者の中では、私が一番遠くからの出席者だった。
東京に住んでいて、東京の会社に勤め、有名な企業と関連し、先端技術を扱うような仕事をしているということは、どこかしら優越感がないとは言えない。
しかし、この東京で、家を買うこともできず必死に暮らしている。

余裕をもって暮らしている故郷の同級生のようにはいかないのだ。

懐かしさとともに、なんだか割り切れない思いをもちつつ、
結局は東京で突っ走り続けるしかない。

帰宅すると、注文してあったビジネス著作権検定の問題集が届いていた。

また、東京の自分に戻ろう。


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