今日は、六本木の国立新美術館に“フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展”を見に行ってきました。
結局のところ、「牛乳を注ぐ女」はオランダ風俗画の中のひとつであるが、その最も傑作ということで、別格な取り扱いになっていた。
確かに構図や描写の仕方など格段のもののようだ。
この絵の中の女の人は、パンに牛乳を注いでパンプディングかなんかを作ろうとしているらしいが、その作業に純粋に心を向けているこの絵は、人の心を浄化させるような不思議な力がある。牛乳というのは白くけがれ無き純粋な飲み物でもある。
無駄なものを廃し、牛乳を注ぐ姿を効果的に描いているその名作は、300年以上もずっと牛乳を注ぎ続け、人を魅了し続けてきたのだ。絵というのは不思議なものだ。
この作品が傑作なのは確かにそうなのだが、他の作品にも印象に残るものが多かった。
酔っ払ってひっくり返っている太った女、床に散らばるゴミ、人と共にいる犬や猫、ふんだんな酒と食べ物、賭け事をする男たち。色事を思わせる男女。
飽食と享楽にうずもれたような世相を風刺している。
この時代はそういう時代だったのか。もしかしたら、そんな人たちばかりではなかったのかもしれない。確かに、良妻賢母のような様子が描かれた絵もあった。だが、風刺されるような人たちがいっぱいいたということは確かだろう。
この時代は、日本ではほぼ江戸時代にあたり、日本でも町人文化の盛んな時代で、平和ではあったといえよう。
また、そのようすは、現代の日本にも通じるような気がしてならない。贅沢三昧をしている人たちがいる。
お金持ちの母娘と召使がいて、貧しい路上芸人かなんかの父子にお金を渡そうとしている絵があった。裕福な階級と貧乏な階級の対比がよくわかる。それは、今の格差社会の日本ともとても似ているような気がした。お金持ちには光があたり、とてもきれいなドレスを身にまとっている。それに対して、貧乏人は光のあたらないところで、暗い汚い服装をしていた。
いつの世も同じようなものだろうか?
一方、家事や仕事をする姿の描かれた望ましい姿の絵もたくさんあった。
これは現在にしたらなかなか見られない風景のような気がした。
だいたい、家事をする主婦の絵など今は考えられないような気がするのである。
パンケーキを焼く女なんていうのが、絵になるだろうか。裁縫をする人もどうだろうか?
また、商いをする人なども現代社会において絵なんかになるだろうか?
全自動洗濯機に洗濯物を入れる主婦や、コンビニで働く若者、パソコンに向うお父さん、テレビゲームに興じる子どもなどを絵にしてみたらどうだろうか?
現代の風俗画ってどうだろう。
しかし、なんだか人の働く姿が無味乾燥のような気がするし、人々があんなに戯れていないような気がする。
レストランなどでも個々のグループで勝手に食べ、美術館でも人がいっぱい集っているけれど、個人個人が勝手に絵を見て群がっているだけかもしれない。
同じように、飲んだり食べたり遊んだり働いたりしていてもなんとなく味わいがないような気がしてしまうのだった。
黒川紀章氏設計の建物はさすがにインパクトがありました。
ガラス張りで、空港建物のような、宇宙ステーションのような、温室のような、美しく斬新なものでした。
黒川氏はどうして選挙にでたのだろうか?って、
結果として、“建築家”黒川氏を世の中に知らしめたと思います。
やはり、すごい建築家だったんだなと思いました。
亡くなる前にみんながこの人の顔を覚えて、その人とこの建築物、また大阪万博のパビリオンなども振り返って、功績を確認できたのは良かったですね。
私は、この建物がなかったらおそらく「フェルメール~~展」には足を運んでいなかったでしょう。
(写真は一番最初に目に入った美術館の姿です。どうしても人が入ってしまうんです。すみません。後姿だから大丈夫でしょう。)
結局のところ、「牛乳を注ぐ女」はオランダ風俗画の中のひとつであるが、その最も傑作ということで、別格な取り扱いになっていた。
確かに構図や描写の仕方など格段のもののようだ。
この絵の中の女の人は、パンに牛乳を注いでパンプディングかなんかを作ろうとしているらしいが、その作業に純粋に心を向けているこの絵は、人の心を浄化させるような不思議な力がある。牛乳というのは白くけがれ無き純粋な飲み物でもある。
無駄なものを廃し、牛乳を注ぐ姿を効果的に描いているその名作は、300年以上もずっと牛乳を注ぎ続け、人を魅了し続けてきたのだ。絵というのは不思議なものだ。
この作品が傑作なのは確かにそうなのだが、他の作品にも印象に残るものが多かった。
酔っ払ってひっくり返っている太った女、床に散らばるゴミ、人と共にいる犬や猫、ふんだんな酒と食べ物、賭け事をする男たち。色事を思わせる男女。
飽食と享楽にうずもれたような世相を風刺している。
この時代はそういう時代だったのか。もしかしたら、そんな人たちばかりではなかったのかもしれない。確かに、良妻賢母のような様子が描かれた絵もあった。だが、風刺されるような人たちがいっぱいいたということは確かだろう。
この時代は、日本ではほぼ江戸時代にあたり、日本でも町人文化の盛んな時代で、平和ではあったといえよう。
また、そのようすは、現代の日本にも通じるような気がしてならない。贅沢三昧をしている人たちがいる。
お金持ちの母娘と召使がいて、貧しい路上芸人かなんかの父子にお金を渡そうとしている絵があった。裕福な階級と貧乏な階級の対比がよくわかる。それは、今の格差社会の日本ともとても似ているような気がした。お金持ちには光があたり、とてもきれいなドレスを身にまとっている。それに対して、貧乏人は光のあたらないところで、暗い汚い服装をしていた。
いつの世も同じようなものだろうか?
一方、家事や仕事をする姿の描かれた望ましい姿の絵もたくさんあった。
これは現在にしたらなかなか見られない風景のような気がした。
だいたい、家事をする主婦の絵など今は考えられないような気がするのである。
パンケーキを焼く女なんていうのが、絵になるだろうか。裁縫をする人もどうだろうか?
また、商いをする人なども現代社会において絵なんかになるだろうか?
全自動洗濯機に洗濯物を入れる主婦や、コンビニで働く若者、パソコンに向うお父さん、テレビゲームに興じる子どもなどを絵にしてみたらどうだろうか?
現代の風俗画ってどうだろう。
しかし、なんだか人の働く姿が無味乾燥のような気がするし、人々があんなに戯れていないような気がする。
レストランなどでも個々のグループで勝手に食べ、美術館でも人がいっぱい集っているけれど、個人個人が勝手に絵を見て群がっているだけかもしれない。
同じように、飲んだり食べたり遊んだり働いたりしていてもなんとなく味わいがないような気がしてしまうのだった。
黒川紀章氏設計の建物はさすがにインパクトがありました。
ガラス張りで、空港建物のような、宇宙ステーションのような、温室のような、美しく斬新なものでした。
黒川氏はどうして選挙にでたのだろうか?って、
結果として、“建築家”黒川氏を世の中に知らしめたと思います。
やはり、すごい建築家だったんだなと思いました。
亡くなる前にみんながこの人の顔を覚えて、その人とこの建築物、また大阪万博のパビリオンなども振り返って、功績を確認できたのは良かったですね。
私は、この建物がなかったらおそらく「フェルメール~~展」には足を運んでいなかったでしょう。
(写真は一番最初に目に入った美術館の姿です。どうしても人が入ってしまうんです。すみません。後姿だから大丈夫でしょう。)