[東京オリンピックで五輪を描いたF-86F]
ブルーインパルスのアクロバット飛行で戦後際立った活躍は、1964年の東京オリンピックの開会式で、5機のF-86F戦闘機が五輪マークを大空に描いたことが有名だ。
そういえば、映画「3丁目の夕日」でそんな場面もあったようだ。当時4歳だった私にはもちろん記憶はない。おそらく自宅の白黒テレビで家族と一緒に見ていただろうけど、そのときのスモークはちゃんと5色の色をしていたそうだ。
ブルーインパルスが空に五輪を描くという発想は、航空自衛隊から参議院議員になった源田實という人の発想と行動によるものだったようだ。この人は、戦時中から軍人でパイロットだったが、実戦の経験はなく、派手なことがすきでカリスマ性のあるひとだったらしい。
最初は、戦闘機が丸い円を描くことは不可能と思われたようだが、科学的な高度や速度などの計算に基づき、地上からきれいな五輪に見える描き方を試行錯誤し、何度も練習を重ねたことによって、みごとに本番は大成功させた。
この円は、飛行機が水平に飛んで円を描いているのではなく、垂直方向に飛ばないといけないので、高度な技術を要するものだし、時間のタイミングも難しい。また、噴き出す色のついたスモークはとても高価なものであるため、練習ではそんなに使うことができなかったそうだ。
1964年の10月10日は、前日の大雨ににもかかわらず、予想に反して快晴であり、雲ひとつない青空に五輪を描くことになった。ブルーインパルスは、入間基地から飛び立ち、江の島上空に待機し、神宮上空に向かった。成功して本当によかった。このときのオリンピックは、東洋で行われた初めてのオリンピックだったそうだ。戦争に負けてもやっぱり日本は東洋の先頭を行く国なのだ。頑張っていたなと思う。
この本を読んで改めて知ったことは、敗戦後、日本に軍事力はなくなった(なくならされた)のかと思っていたら、そうではなく、アメリカの都合もあって軍事には力を入れていたということだ。ハチロクと言われるこのF-86F戦闘機も最初はアメリカから供与されたもので、後に三菱重工が作るようになったものらしい。自衛隊となった軍隊は、戦後も軍事力を持ち、訓練や防衛もしっかり続けていて、自衛隊員を募集していた。当時五輪を描いたパイロットたちは、やはり航空自衛隊のエリートと言えるが、終戦当時まだ少年だった人たちが、戦後、自衛隊に入る試験を受けて戦闘機に乗る隊員になっていたということだ。
悲惨な戦争で大部分の兵隊が死んでいったあとに、さらに軍人になろうと考える人がいようとは、思ったこともなかったが、確かに、戦争が終わってもそこで軍備が途切れたわけではないことに改めて気付かされた。
当時、戦闘機などの飛行機はよく落ちるもので、日本に駐在している米軍の飛行機などもしょっちゅう落ちては一般人にも犠牲を出していたそうである。それで、自衛隊は、一般に迷惑をかけないことに非常に気を使っていた。オリンピックでも万が一の時には、機体をどこに墜落させれば犠牲がでないかなどをよくよく考えていたとのことである。
「飛行機は飛び立ったら、落ちるか着陸するかのどちらかしかない」という記述は、的を射ている。
上空では酸素も薄くなるし、気圧も違う。上空飛行と低空飛行では全く状況が違うらしい。高度を一気に上げたり下げたり、宙返りなどするとすごい重力もかかるし、その苛酷さは、想像以上のものであることが察せられる。いつも危険と隣り合わせだ。
あらためて、パイロットとは、よくこんな大変なことをするものだと思う。
五輪を描いたパイロットの中には、後に、民間旅客機のパイロットになった人もいるようだ。パイロットは機体に異常が起き、緊急事態で不時着するときなども、地上に犠牲者が出ないようなところに不時着するよう、限られた時間の中で咄嗟の判断をするそうである。
いつも覚悟と責任を持っているのだろう。
東京オリンピックの話にもどると、この大会の陸上競技でメダルをとったのはマラソンの円谷選手の銅メダルひとつだったそうだ。この時のマラソン金メダルはエチオピアのアベベ選手であり、円谷は2位を走っていたが、ゴール間近でイギリスの選手に抜かされてしまったそうだ。私が小学生のときに、このときのことを書いた文章が国語の教科書に載っていたのを覚えている。円谷選手はその数年後に挫折が続き、自殺したという。残念な結末となってしまった。とても真面目な人だったようだ。
このオリンピックでは、銅メダルの円谷選手と、大空に五輪を描いたブルーインパルスの隊員たちが防衛庁長官から表彰を受けたそうである。円谷も自衛隊の所属だったらしい。この時の防衛庁長官は、元総理小泉純一郎氏の父、小泉純也だったそうだ。
いろんなことが、現代につながって面白い。
ブルーインパルスのアクロバット飛行で戦後際立った活躍は、1964年の東京オリンピックの開会式で、5機のF-86F戦闘機が五輪マークを大空に描いたことが有名だ。
そういえば、映画「3丁目の夕日」でそんな場面もあったようだ。当時4歳だった私にはもちろん記憶はない。おそらく自宅の白黒テレビで家族と一緒に見ていただろうけど、そのときのスモークはちゃんと5色の色をしていたそうだ。
ブルーインパルスが空に五輪を描くという発想は、航空自衛隊から参議院議員になった源田實という人の発想と行動によるものだったようだ。この人は、戦時中から軍人でパイロットだったが、実戦の経験はなく、派手なことがすきでカリスマ性のあるひとだったらしい。
最初は、戦闘機が丸い円を描くことは不可能と思われたようだが、科学的な高度や速度などの計算に基づき、地上からきれいな五輪に見える描き方を試行錯誤し、何度も練習を重ねたことによって、みごとに本番は大成功させた。
この円は、飛行機が水平に飛んで円を描いているのではなく、垂直方向に飛ばないといけないので、高度な技術を要するものだし、時間のタイミングも難しい。また、噴き出す色のついたスモークはとても高価なものであるため、練習ではそんなに使うことができなかったそうだ。
1964年の10月10日は、前日の大雨ににもかかわらず、予想に反して快晴であり、雲ひとつない青空に五輪を描くことになった。ブルーインパルスは、入間基地から飛び立ち、江の島上空に待機し、神宮上空に向かった。成功して本当によかった。このときのオリンピックは、東洋で行われた初めてのオリンピックだったそうだ。戦争に負けてもやっぱり日本は東洋の先頭を行く国なのだ。頑張っていたなと思う。
この本を読んで改めて知ったことは、敗戦後、日本に軍事力はなくなった(なくならされた)のかと思っていたら、そうではなく、アメリカの都合もあって軍事には力を入れていたということだ。ハチロクと言われるこのF-86F戦闘機も最初はアメリカから供与されたもので、後に三菱重工が作るようになったものらしい。自衛隊となった軍隊は、戦後も軍事力を持ち、訓練や防衛もしっかり続けていて、自衛隊員を募集していた。当時五輪を描いたパイロットたちは、やはり航空自衛隊のエリートと言えるが、終戦当時まだ少年だった人たちが、戦後、自衛隊に入る試験を受けて戦闘機に乗る隊員になっていたということだ。
悲惨な戦争で大部分の兵隊が死んでいったあとに、さらに軍人になろうと考える人がいようとは、思ったこともなかったが、確かに、戦争が終わってもそこで軍備が途切れたわけではないことに改めて気付かされた。
当時、戦闘機などの飛行機はよく落ちるもので、日本に駐在している米軍の飛行機などもしょっちゅう落ちては一般人にも犠牲を出していたそうである。それで、自衛隊は、一般に迷惑をかけないことに非常に気を使っていた。オリンピックでも万が一の時には、機体をどこに墜落させれば犠牲がでないかなどをよくよく考えていたとのことである。
「飛行機は飛び立ったら、落ちるか着陸するかのどちらかしかない」という記述は、的を射ている。
上空では酸素も薄くなるし、気圧も違う。上空飛行と低空飛行では全く状況が違うらしい。高度を一気に上げたり下げたり、宙返りなどするとすごい重力もかかるし、その苛酷さは、想像以上のものであることが察せられる。いつも危険と隣り合わせだ。
あらためて、パイロットとは、よくこんな大変なことをするものだと思う。
五輪を描いたパイロットの中には、後に、民間旅客機のパイロットになった人もいるようだ。パイロットは機体に異常が起き、緊急事態で不時着するときなども、地上に犠牲者が出ないようなところに不時着するよう、限られた時間の中で咄嗟の判断をするそうである。
いつも覚悟と責任を持っているのだろう。
東京オリンピックの話にもどると、この大会の陸上競技でメダルをとったのはマラソンの円谷選手の銅メダルひとつだったそうだ。この時のマラソン金メダルはエチオピアのアベベ選手であり、円谷は2位を走っていたが、ゴール間近でイギリスの選手に抜かされてしまったそうだ。私が小学生のときに、このときのことを書いた文章が国語の教科書に載っていたのを覚えている。円谷選手はその数年後に挫折が続き、自殺したという。残念な結末となってしまった。とても真面目な人だったようだ。
このオリンピックでは、銅メダルの円谷選手と、大空に五輪を描いたブルーインパルスの隊員たちが防衛庁長官から表彰を受けたそうである。円谷も自衛隊の所属だったらしい。この時の防衛庁長官は、元総理小泉純一郎氏の父、小泉純也だったそうだ。
いろんなことが、現代につながって面白い。