なんと、美術館に行ってから2週間近くも経ってしまいました。
前振りを書いてから、本編を書かなくてはと思いつつ、何度か書き始めてみたものの、どうもうまく書けないまま時が経つばかりでした。
それは、自分の言葉で展示内容について書こうとすると、内容に間違いがあってはならないと思い、事実を調べなくてはならなくなる。
少し調べてみると、膨大な情報。調べるのも大変。
そのなかから、重要な部分や、自分が書きたい部分を簡潔にまとめる力量もなし。→挫折。
という状況です。
そうこうするうちに、だんだん記憶も薄れてきたので、それは却って好都合かもしれない。
印象に残っていることだけを、適当に書いてしまおう。
今回の展示では、吟香という人のインパクトが強かった。
何でもやってしまう人だ。
記憶に強いのは、目を病んで、横浜のヘボンを訪れ、目を治してもらうとともに、和英辞書の編纂を手伝うことになったこと。吟香にとって、ヘボンとの出会いはとても大きなものであったのだろうと思う。
その後、新聞記者などもし、ジャーナリストとして活躍するが、西洋医学の目薬の効果を知り、日本で初の点眼薬「精水」を発売する。それまでは、目の薬と言えば塗り薬だったようだが、ガラスの瓶に入った液体の目薬をつくった。また、この看板や広告の図案も自分で手掛け、絵も書いている。この目薬の売り込みも盛んであり、資生堂などとともに新聞や雑誌にも掲載されていた。
展示物には、吟香の書いた新聞記事、書物、原稿、手紙、それから掛け軸となった絵や書道、当時の広告など様々であった。
吟香の作品もあれば、吟香に関するもの、当時の関連する物事(偽物の精水等)もあった。とにかく多才でやり手の人だったという印象だ。
ところで、私にとっては「精水」に興味をそそられた。いったい成分はどういうものだったのだろうか?展示の中ではよくわからなかったので、自分で調べてみたが、当時の目薬の成分としては「硫酸亜鉛水和物」というものだったようだ。効果としては、おだやかな収れん作用と抗炎効果があり、目の炎症を抑えるものだったと思われる。現在の目薬の成分にもなっているようだ。
吟香が実際、どういう目の病を患っていたのかはよくわからないし、新しい眼薬によって全快したのかもわからないが、とにかく日本古来の目薬に比べると効果があったようだ。
吟香は、後に盲学校も創立していて、目の病に貢献している。
次に、その息子岸田劉生だ。吟香は子供が多く、14人もいて、そのうちの9番目だった。
父吟香は72歳で亡くなっているが、そのとき劉生はまだ14歳くらいだったことになる。
絵の才能は父親譲りであろう。そして、絵の道に進む。劉生と交流した人たちに関する展示もあった。
才能のある人々は、その分野のそういう人同士の交流があるものだと思った。
岸田劉生の画風は以前から知ってはいたので、特に驚くことはなかったが、少女の像などは、以前は顔にばかり印象が強かったものの、その着物の模様や質感がとてもリアルで、他の見物者も注目していたようだった。
麗子像は、劉生が溺愛していた長女であるが、不気味な感じがするものなどは、わざと童女のおかしな雰囲気をかもし出させたのかもしれないと感じる作品があった。
日本画はあまり上手だとは思えなかった。
岸田劉生は、独創的で破格な画家と言われているが、その点はあまりよくわからない。海外渡航の途中で客死したとのことで、38歳の若さだった。死因はわからず。
麗子は、父親の愛情をあふれんばかりに受けて成長する。父親の絵のモデルになっているので、その愛されぶりもよくわかるが、父から娘へ旅先から送られた手紙なども展示されていた。小さな子どもにもわかるように絵入りで出来事などが描かれており興味深い。
一緒に絵を描いたりもしたようだ。
父が亡くなったときは15歳であり、その後父の旧友だった武者小路実篤に師事する。
絵も描き、また役者として舞台にも立った。父劉生の死後、劇団での、母と弟と共に写った写真なども展示されていた。
麗子が子どもころに描いたというスケッチブックの絵も展示されていた。岸田劉生の子供が描いた絵でなければ、美術館に展示されることもなさそうだが、確かに、女性の着物姿の絵などが事細かく描かれていて、6歳の子供が描くには、かなりのものである。
やはり画家の娘だな~と思うし、父親の存在は強い。親が子供におよぼす影響の強さを感じる。
麗子は、亡き父の日記を精読し、岸田劉生の評伝を書いたそうだ。それを読んでみたいものだと思った。
そして、麗子も48歳という短い生涯を終えていた。
親子3代、なかなか見ごたえのある展示だった。