仕事の帰り路に考えた。
お金を使って食べ物を買い、それを食べて太ってしまい、お金を使ってジムに通い、太った脂肪を燃焼させる。
なんか、無駄な事をしているような・・・。
それならば、食べなきゃいいよね。そうすればハムスターみたいにランニングマシーンで走り続けなくてもいいし・・・。お金も時間もかからない。
ということで、ちょっと1時間くらい散歩をしてきたけど、疲れたのなんのって、それに、お腹が空いて死にそうになってしまった。
帰宅したら、そのへんにあるお菓子パクパク食べて、冷凍のナポリタンを食べて、お腹がいっぱいになった。
歩いただけでは全然脂肪は燃焼しないみたいなので、結局トレーニングルームに行ってきたのだ。
それでも、相変らず身体は重い。太ったままである。
週に1回は運動をする、というノルマを、平日のうちにやっておけば、土日は別のことができるよね。
この頃、このブログの閲覧数が100くらい増えていてびっくりしたのだけど、アクセス解析を見ると、運転免許の教習を受けていた頃の記事を読んでもらってるようである。
そういえば、免許取得以来、私の人生は変わって、週に1回を運転に当てないといけない生活習慣になったのだ。運転の感覚を維持するためと、車のバッテリーのためなのである。
車のせいで、忙しいし、それに維持費もかかるから、私は仕事をしているのかもしれないなあ。
同じ会社に勤めていた同僚が、1年くらい前に仕事をやめたのだけど、てっきりもっと良い仕事に転職してるのだと思っていた。ところが、意外にも働いていないのだそうだ。
お子さんが社会人になったので、学費もかからなくなったから、収入を得る必要がなくなったということもあるらしい。
私は生活のために働いており、車の維持費のためにも働いており、さらに自己実現っていうか、仕事をすること自体にも価値を感じている。社会に貢献しているというか、また、仕事をすることによって、パソコンのスキルが身に付いたり、ある知識が身に付いたりもするから、それが自分の望むところなのである。
仕事のできる(労働能力のある)人間が優秀だと思っているので、仕事で人間の価値が決まるとも思っているのであった。
でも、ある人と話をしていたら、どうも考え方が噛み合わないということに気がついた。
その人は、労働をしなければならないような境遇にいる人を不幸だと思っているのであり、働かないでも有り余る財産を所有し、優雅に暮らせることこそが人間の幸福であり、そういう生活こそがあるべき理想の姿だと思っているようなのだ。
そんな考えは変だと思っていたのだが、もしかして、自分も働く必要がないような境遇だったら、今の自分のような考えは持たず、仕事もしていなかったかもしれない。
やっぱり好きで仕事をしているわけではなく、必要があってしているのだろう。
そして、生活するために、車を維持するために、仕事を続ける人生が、いつまで続くんだろうか?
今の車、65歳くらいまで運転するかな?そのあとは、別の車を買うのかな?
車はどうしても必要なものではないから、車が無ければもっと生活が楽になるかもしれない。でも、車があることで、行動範囲も変わったと思うし、無駄な労力をしていることも自分にとって悪いことではないのかもしれない。
平日の夜間にトレーニングルームに行くのは、土日に車を運転しないといけないからなんだよね。
車=余計な苦労の種、だけど、それでもいい。
ペットを飼うのは大変だけど、楽しいことも多い。
子供を育てるのも大変で、労力も出費も必要になる。
自分の家を買うのも大変だろうな。(私には無いけど。)
皆、余計な苦労をしてるんだけど、苦労は悪いものではないんだろうね。
お金を使って食べ物を買い、それを食べて太ってしまい、お金を使ってジムに通い、太った脂肪を燃焼させる。
なんか、無駄な事をしているような・・・。
それならば、食べなきゃいいよね。そうすればハムスターみたいにランニングマシーンで走り続けなくてもいいし・・・。お金も時間もかからない。
ということで、ちょっと1時間くらい散歩をしてきたけど、疲れたのなんのって、それに、お腹が空いて死にそうになってしまった。
帰宅したら、そのへんにあるお菓子パクパク食べて、冷凍のナポリタンを食べて、お腹がいっぱいになった。
歩いただけでは全然脂肪は燃焼しないみたいなので、結局トレーニングルームに行ってきたのだ。
それでも、相変らず身体は重い。太ったままである。
週に1回は運動をする、というノルマを、平日のうちにやっておけば、土日は別のことができるよね。
この頃、このブログの閲覧数が100くらい増えていてびっくりしたのだけど、アクセス解析を見ると、運転免許の教習を受けていた頃の記事を読んでもらってるようである。
そういえば、免許取得以来、私の人生は変わって、週に1回を運転に当てないといけない生活習慣になったのだ。運転の感覚を維持するためと、車のバッテリーのためなのである。
車のせいで、忙しいし、それに維持費もかかるから、私は仕事をしているのかもしれないなあ。
同じ会社に勤めていた同僚が、1年くらい前に仕事をやめたのだけど、てっきりもっと良い仕事に転職してるのだと思っていた。ところが、意外にも働いていないのだそうだ。
お子さんが社会人になったので、学費もかからなくなったから、収入を得る必要がなくなったということもあるらしい。
私は生活のために働いており、車の維持費のためにも働いており、さらに自己実現っていうか、仕事をすること自体にも価値を感じている。社会に貢献しているというか、また、仕事をすることによって、パソコンのスキルが身に付いたり、ある知識が身に付いたりもするから、それが自分の望むところなのである。
仕事のできる(労働能力のある)人間が優秀だと思っているので、仕事で人間の価値が決まるとも思っているのであった。
でも、ある人と話をしていたら、どうも考え方が噛み合わないということに気がついた。
その人は、労働をしなければならないような境遇にいる人を不幸だと思っているのであり、働かないでも有り余る財産を所有し、優雅に暮らせることこそが人間の幸福であり、そういう生活こそがあるべき理想の姿だと思っているようなのだ。
そんな考えは変だと思っていたのだが、もしかして、自分も働く必要がないような境遇だったら、今の自分のような考えは持たず、仕事もしていなかったかもしれない。
やっぱり好きで仕事をしているわけではなく、必要があってしているのだろう。
そして、生活するために、車を維持するために、仕事を続ける人生が、いつまで続くんだろうか?
今の車、65歳くらいまで運転するかな?そのあとは、別の車を買うのかな?
車はどうしても必要なものではないから、車が無ければもっと生活が楽になるかもしれない。でも、車があることで、行動範囲も変わったと思うし、無駄な労力をしていることも自分にとって悪いことではないのかもしれない。
平日の夜間にトレーニングルームに行くのは、土日に車を運転しないといけないからなんだよね。
車=余計な苦労の種、だけど、それでもいい。
ペットを飼うのは大変だけど、楽しいことも多い。
子供を育てるのも大変で、労力も出費も必要になる。
自分の家を買うのも大変だろうな。(私には無いけど。)
皆、余計な苦労をしてるんだけど、苦労は悪いものではないんだろうね。