山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

六角地蔵尊

2021-10-31 22:26:50 | 旅行・街歩き

本日は、以前から車で走っていて気になっていた西東京市の「六角地蔵尊」を見に行ってきました。

所沢街道の「六角地蔵尊」という交差点のそばには六角地蔵があるのだろうとは、初めてこの道を走ったときから気にはなっていたのですが、何年間も道路を運転していて、それに気づくことはありませんでした。

本日は、最近この交差点に新しい道路ができて形状が変わったこともあり、現場を見に行くことにしました。

幸いすぐそばにコインパーキングがあったので、そこに駐車して近隣を歩いてみました。

するとすぐに見つかりました。思った以上に立派で、花もたくさんあげられていて存在感がありました。

6人のお地蔵さんが6面を向いています。裏側のお地蔵さんは残念ながら見えません。

天井にはお札がいっぱい貼ってありました。

説明書きです。

この六角地蔵尊は江戸時代、安永8年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立されたそうです。

この場所は道路が6又に分かれていたので、六道(地獄・飢餓・畜生・修羅・人・天)を救済すると言われている地蔵尊を路傍に建立し、その道路の各方面に地蔵尊を一体ずつ彫刻して旅人の平安と交通の安全を祈るとともに、6つの道路の名(南沢道・前沢道・所沢道・小川道・保谷道・江戸道)を刻んで道標にしたものだそうです。これは江戸時代の交通を知る上で貴重な記録となっています。

また、お地蔵さんは悪疫防除・五穀豊穣・長寿・安産・育児などのあらゆる願い事を満たしてくれる仏さまとして信仰されていたそうです。

元は所沢街道の北側にあったものを昭和60年に南側に移動し、正面の向きを180度変えたので、右と左を読み替えないと迷子になるそうです。

というようなことが書いてありました。

これは、六角地蔵尊の前から、北側方向を見て交差点を撮影したものです。

正面が六角地蔵通りで昔の南沢道です。

こちらから左斜め(北西)へと続くのが所沢街道です。

所沢街道の手前に左に入る道があり、それが鎌倉街道です。

右(東)側の道路は数か月前にできた新しい道路(新所沢街道?)です。

上の写真の正面の人の居る位置から撮った写真が下の写真です。

六角地蔵尊が正面左にあり、その右に小さな鳥居と祠があります。
この鳥居は民地の中にありました。

こちらは、交差点の北西角から所沢街道の所沢方向を見たところです。

右に入る道があり、その別れるところに庚申塚がありました。
こちらもお堂の中にあって、きれいに花が供えられていました。

左が所沢街道で、右が前沢道のようです。

これで、現在確かに6つの道があります。

六角地蔵尊と庚申塚は、以前は道路のすぐそばにあり、馬車や車がぶつかって倒されたりしたことがあったので、それを守るためにお堂が作られ、また道路の拡幅などにもより、場所を変えて現在の状態になったとのことです。

どちらもこの地域の人々によって大切に保存されているのがわかります。

もしこれを建立した大昔の人たちがタイムスリップして現在に来たとしたら、道路の変化には驚くでしょうけど、六角地蔵尊と庚申塚が変わらずにあることで、ここがその場所だと確信できることでしょうし、後世の人々によって大切にされていることに安堵するでしょう。

これらの石仏が長い年月の間、ここで人々の往来を見守ってくれているのだと思うと感慨深いものです。

 

所沢街道には、昔のものが多く残されているのかもしれません。

(11/1追記: 昨夜12時頃、この記事を書いていたら、途中で編集画面が固まってしまい、やむなく画面を閉じたところ、後半の半分以上が消滅してしまい、10時頃に書いてあった前半部分だけしか残っていませんでした。今朝、とりあえず大幅に省いた内容を後半につけてUPした次第です。昨夜は苦労して書いたのに残念。)

昨日は近隣も歩いて見てきたので、その状況はまた後で書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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キョウケン

2021-10-31 07:18:45 | 日記2021

この頃、都内各地の郷土資料館・郷土博物館をめぐっているのだが、そうすると大昔に道標や供養や信仰のために建てられた石碑・石仏についての展示がある。

それによって、当時の交通や人の生活がわかるのだ。

そもそも、街道や石碑などに関心を持ったのは、you tubeでスーツさんの東海道の旅・中山道の旅を見たのがきっかけであった。

これまでは、石碑なんていうものは、地味で面白くもないものだと思っていたが、急に関心が出て来たのだ。

・・・

ところで、高校のときの部活には「キョウケン」「チリケン」「オチケン」などがあった。

キョウケンは郷土研究部、チリケンは地理研究部、オチケンは落語研究部だ。

私は演劇部だったが、その部室は普通の教室を3分割したもので、そこを演劇部と郷研と落研で使っていた。

そのうち郷研は帰宅部であり、ほとんど活動をしていないので、広さも狭い。
テーブルとその周りに椅子がいくつか置いてあるだけであり、誰もいない。

演劇部はその奥にあり広い面積を取っている。
キョウケンを通らないと入れないが、どうせ誰もいないのでただの通路になっている。

落研は別の入り口から出入りし、細長く奥まで続いている。

スペースを区切っているついたては天井まではないので、机の上に登ると、隣の部室を上から見下ろして覗くことができた。

地理研の部室はどこにあったか知らないが、これも郷研と同じで帰宅部であり、これらは文化祭のときなどにちょっとしたパネルの展示をするくらいだったのではないかと思う。そのため、地理と郷土を研究するこれらの帰宅部について、私は同類のものという風にとらえていた。

・・・

実はこのキョウケンには、私があこがれていたM 君が在籍していた。
しかしM君が郷土を研究することに興味を持っていたとは到底考えられず、おそらく仲の良い友達にくっついて一緒に在籍していただけなのではないかと思う。キョウケンは男子数人で女子はいなかったようだ。

私もキョウケンがやっている内容については何ら関心がなかったのだが、たしか高校の先生には道祖神のことに詳しい先生がいたような気がするのだ。渋い趣味だなあと思っていた。(現国の先生で、趣味ではなく研究者だったのか?)
あ、でもその先生が顧問だったわけではなかったような?(顧問は英語の文法の先生だったような?記憶があやふや)

キョウケンの部室では、そもそも人の姿など見かけたこともなく何ら活動をしていなかったが、ただ1度だけ、M君たちがきて、何かに着替えて出ていったことがある。

そのあとに、テーブルの上にM君の制服も置かれていたのを密かに眺めた記憶があった。(変態ではありません。ただ部室への出入りのときに見かけただけです。)

あれは、何かの折に運動着かなんかに着替える必要があり、ただ部室を使うのが都合がよかったから利用しただけだろう。

演劇部は始終幕無しに毎日活動していた。(そういえば、演劇部の顧問と副顧問は古典の先生と生物の先生で、よく面倒をみてくれたな。)

もし、キョウケンが毎日活動していたのなら、私は隣の部室にいるM君の存在を意識しつつ、ときめきながら自分の部室で活動したのだろうけど、そんなことは1度もなかった。

・・・

話は関係ないところにそれたが、キョウケンとは何を研究していたんだろう。やっぱり道祖神かな?
それとも郷土の歴史なのか風俗なのか?
郷土と言っても、生徒の家は高校のある町ではない人もいるし、それぞれにそれぞれの郷土を研究していたんだかそれもわからない。

高校生が何を研究していたのかな?

私は、還暦をすぎてから初めて郷土のことに関心を持ち始めたのである。

 

 

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