このごろ、すごく意外なことがあった。
というのは、ある集団で、私だけが短大卒で、あとのひとたちはみんな大卒だと思っていたのだが、実はその中のある人が短大卒だったことが分かったのだ。
過去の話をする場合、よく「大学のとき~」という話がでるのだが、そのあたりは私は「学生のときは~」とぼかした言い方をすることが多い。しかし、つい「短大のときは~」と表現してしまうこともある。どうしたって「大学のときは~」とウソは言えないわけで、自然にいちいち「短大」と言ってしまう。そして、「しまった!」と思うが、そのときは4年制大学を出ていないことがバレてしまうわけである。
学歴の高い人と話をしていると、4年制大学を出ているのはあたりまえという意識の人も多いし、中には国立大学を出ているか、結果的に私立になったとしても国立を受験しているのがあたりまえのような感覚の人もいるので、なかなか肩身が狭い。
しかし、隠し事ができない性分であるゆえ、「私は短大だ」と言い、「昔は4年制大学に行く人は少なかった」などと負け惜しみのようなことを言い、「みなさんはすでに大学を出ているけど私は出ていないから今頃になって放送大学に行っているのです」などと言ったりしたこともある。
そんなとき、そこにいた人はみんな、大学を出ているような顔をしていた。「私も短大ですよ」という人はいなかった。だから全員が大卒だと思っていた。
その人は何かのおりに「大学のとき~」とはっきり言っていたと思う。確かに「短期大学のとき」だから略せば「大学」ではある。
それが、ひょんなことから、大学じゃなくて短大だということがわかった。
そのひょんなことというのが、その人の専門的な仕事が認められたことをきっかけにして、その人の経歴があるところに発表されていたからだった。
これって皮肉なことじゃないだろうか?
仕事が認められたことはすごいのだ。その人の才能と努力の賜物だろう。その人の実力である。学歴なんか関係ない。
しかし、同時に「な~んだ、大学は出てなかったんだ」という気が抜けるような変な気分になることは否めない。短大は大学の半分の厚みしかないという感覚は否めないのである。大学を落ちた人が同じ名前の短大に入ることも多々あるわけで、勉強をした期間も短いのが事実なのだ。
そのことが、才能を発揮したから発覚するなんて、皮肉なことだな~
でも、実力を証明したんだからもはや短大だったことが発覚してもかまわないとも言える。
それにしてもこのことで、大学をでていないのに出ているような顔をしている人は、私の周りにもまだまだいるのかもしれないなあと思ったしだいだ。
短大コンプレックスは私だけではないわけだ。
よけいなことを言わなければ大学を出ているように見えるわけだ。
私はやっと放送大学を卒業するが、すでに社会人でもあったので、「大学生のとき~」という言い方をすることはほとんど無く、これからも自分の若い時代をさして「短大のとき」ということが多いと思う。だから今後も人からは最終学歴が短大だと思われるだろう。
ところで、大学を卒業するときは、卒業証書授与だけではなく、「学位記授与」なのだということに気がついた。短大は卒業証書だけであり、学位記は授与されなかったわけだ。やはり短大と大学では大きな違いがあるなあと感じた。
(写真はモクレン=紫木蓮?)
というのは、ある集団で、私だけが短大卒で、あとのひとたちはみんな大卒だと思っていたのだが、実はその中のある人が短大卒だったことが分かったのだ。
過去の話をする場合、よく「大学のとき~」という話がでるのだが、そのあたりは私は「学生のときは~」とぼかした言い方をすることが多い。しかし、つい「短大のときは~」と表現してしまうこともある。どうしたって「大学のときは~」とウソは言えないわけで、自然にいちいち「短大」と言ってしまう。そして、「しまった!」と思うが、そのときは4年制大学を出ていないことがバレてしまうわけである。
学歴の高い人と話をしていると、4年制大学を出ているのはあたりまえという意識の人も多いし、中には国立大学を出ているか、結果的に私立になったとしても国立を受験しているのがあたりまえのような感覚の人もいるので、なかなか肩身が狭い。
しかし、隠し事ができない性分であるゆえ、「私は短大だ」と言い、「昔は4年制大学に行く人は少なかった」などと負け惜しみのようなことを言い、「みなさんはすでに大学を出ているけど私は出ていないから今頃になって放送大学に行っているのです」などと言ったりしたこともある。
そんなとき、そこにいた人はみんな、大学を出ているような顔をしていた。「私も短大ですよ」という人はいなかった。だから全員が大卒だと思っていた。
その人は何かのおりに「大学のとき~」とはっきり言っていたと思う。確かに「短期大学のとき」だから略せば「大学」ではある。
それが、ひょんなことから、大学じゃなくて短大だということがわかった。
そのひょんなことというのが、その人の専門的な仕事が認められたことをきっかけにして、その人の経歴があるところに発表されていたからだった。
これって皮肉なことじゃないだろうか?
仕事が認められたことはすごいのだ。その人の才能と努力の賜物だろう。その人の実力である。学歴なんか関係ない。
しかし、同時に「な~んだ、大学は出てなかったんだ」という気が抜けるような変な気分になることは否めない。短大は大学の半分の厚みしかないという感覚は否めないのである。大学を落ちた人が同じ名前の短大に入ることも多々あるわけで、勉強をした期間も短いのが事実なのだ。
そのことが、才能を発揮したから発覚するなんて、皮肉なことだな~
でも、実力を証明したんだからもはや短大だったことが発覚してもかまわないとも言える。
それにしてもこのことで、大学をでていないのに出ているような顔をしている人は、私の周りにもまだまだいるのかもしれないなあと思ったしだいだ。
短大コンプレックスは私だけではないわけだ。
よけいなことを言わなければ大学を出ているように見えるわけだ。
私はやっと放送大学を卒業するが、すでに社会人でもあったので、「大学生のとき~」という言い方をすることはほとんど無く、これからも自分の若い時代をさして「短大のとき」ということが多いと思う。だから今後も人からは最終学歴が短大だと思われるだろう。
ところで、大学を卒業するときは、卒業証書授与だけではなく、「学位記授与」なのだということに気がついた。短大は卒業証書だけであり、学位記は授与されなかったわけだ。やはり短大と大学では大きな違いがあるなあと感じた。
(写真はモクレン=紫木蓮?)