昨日前編について書いたので、後編についても書かなくてはいけない状況になっているが、筆は進みにくいような気がする。
まあ、見ごたえはあった。前編のように、2人の逢瀬やベッドシーンが繰り返されるよりは、私は裁判のほうが好きである。
主役は、高岡早紀、岸谷五朗に代わって、瀬戸朝香が前面に出てきた。予告で弁護士かと思っていたら検事だった。
真剣に真実を見定めようとする検事の姿や、村尾菊治を真剣に理解しようとする元の妻、息子に共感できた。
しかし、究極の恋愛とは何なのか?最後まで疑問がのこる。幸福の絶頂で死んでしまいたいと思ったにせよ、生身の人間には日常のしがらみがあるから、そんな純粋なことに突き進むことはできないのが事実だ。だから、究極の男女の愛などというものは私には追求する気もないしやはり絵空事だとしか思えない。しょせん小説の中での出来事だ。
実際に許されない関係の愛し合う男女が、その苦しさから共に死ぬことを選び心中することなどはあるだろうが、普通の恋愛ならばそれは生命の破滅に向かうことは生物学上ありえないといえる。付き合い続けたら愛情もムードもなくなり理想の恋愛とはかけ離れた状況になって行くわけだが、それが事実でありそれでいいのだと思う。
愛とは何なのかといえば、それは神秘でもなんでもない。男女の恋愛ではなく、人間愛に至ると言うのが私の考えで、よき理解者である村尾の元妻が私にとっては理想だ。
男女の恋愛については精神的にも肉体的にも理解できないというのが、私の状況である。
それでも、愛の行為に没頭する中で死を望み、相手を殺してしまうという論理があることを提示され、この作品で考えさせられた。また、作家の作品はその人の命の叫びであると思った。
罪とは何か?2人がよくて死んだり殺されたりし、それで恋愛を全うしたとしても、そのことによって影響を受ける人々がいる。そういう人の人生を無視できないではないか。
恋愛至上主義みたいなのは、エゴである。だから実際にこの世から一人の人間を消滅させてしまったことは大きな罪であり、懲役8年の実刑判決は妥当であり、その罪を償ったからと言って、その人を失った家族や友人の人生は取り返しがつかないのであり、恋愛を第一義にして生きるのはやはり普通ではない。
それでもなお、それに生きる村尾と死んだ冬香はやはり特別な感性の持ち主だったといえるだろう。
まあ、見ごたえはあった。前編のように、2人の逢瀬やベッドシーンが繰り返されるよりは、私は裁判のほうが好きである。
主役は、高岡早紀、岸谷五朗に代わって、瀬戸朝香が前面に出てきた。予告で弁護士かと思っていたら検事だった。
真剣に真実を見定めようとする検事の姿や、村尾菊治を真剣に理解しようとする元の妻、息子に共感できた。
しかし、究極の恋愛とは何なのか?最後まで疑問がのこる。幸福の絶頂で死んでしまいたいと思ったにせよ、生身の人間には日常のしがらみがあるから、そんな純粋なことに突き進むことはできないのが事実だ。だから、究極の男女の愛などというものは私には追求する気もないしやはり絵空事だとしか思えない。しょせん小説の中での出来事だ。
実際に許されない関係の愛し合う男女が、その苦しさから共に死ぬことを選び心中することなどはあるだろうが、普通の恋愛ならばそれは生命の破滅に向かうことは生物学上ありえないといえる。付き合い続けたら愛情もムードもなくなり理想の恋愛とはかけ離れた状況になって行くわけだが、それが事実でありそれでいいのだと思う。
愛とは何なのかといえば、それは神秘でもなんでもない。男女の恋愛ではなく、人間愛に至ると言うのが私の考えで、よき理解者である村尾の元妻が私にとっては理想だ。
男女の恋愛については精神的にも肉体的にも理解できないというのが、私の状況である。
それでも、愛の行為に没頭する中で死を望み、相手を殺してしまうという論理があることを提示され、この作品で考えさせられた。また、作家の作品はその人の命の叫びであると思った。
罪とは何か?2人がよくて死んだり殺されたりし、それで恋愛を全うしたとしても、そのことによって影響を受ける人々がいる。そういう人の人生を無視できないではないか。
恋愛至上主義みたいなのは、エゴである。だから実際にこの世から一人の人間を消滅させてしまったことは大きな罪であり、懲役8年の実刑判決は妥当であり、その罪を償ったからと言って、その人を失った家族や友人の人生は取り返しがつかないのであり、恋愛を第一義にして生きるのはやはり普通ではない。
それでもなお、それに生きる村尾と死んだ冬香はやはり特別な感性の持ち主だったといえるだろう。