1967年
元巨人軍山本英規選手(22)が整理されたのは二年前の四十年十二月。ある日突然、下宿先へ球団からの一通の封書が舞い込んだ。まさかそれが整理の前ぶれだとは夢にも思わなかった。指定された日時に球団事務所を訪れると、ふだんあまり見かけないおえら方が机の向こうにいる。「実は、君はもう、うちの球団には必要なくなったのだ」とひとこと。一瞬、血が凍る思いがした。カーッとなり、立っている床に気がめり込みそうな感じだった。こんなとき「死んだ気でやるからもう一年使ってくれ」と泣きつく選手が多いことも知っていた。しかし、のど先まで上がってきたその固まりが、ついに声にはならなかった。気がついたときは逃げるようにして事務所を飛び出していた。どの球団でも整理はこのようにして行われるらしい。入団のときのはなやかさに比べ、その幕切れのあっけなさ。三十八年、名門広陵高から第二の長嶋と騒がれて入団したのが、きのうのよう。その年、足に死球を受けて働けず、つぎの年もまた死球を受けてダウン。泣いてくやしがった。このままでは父母に合わす顔がない。故郷にも帰れない。世間は契約金ドロボウというだろうー。だが、一晩泣いた彼は、つぎの朝はもう立ち上がっていた。「もう一度やる」心に誓って世話になった荒川コーチを訪ねた。「ランニングをやりたいのです」クビになったのはふとりすぎて鈍足だったからに違いない。それを直せば、またきっと使ってもらえるーそう思ったからだ。「よし、思うとおりやってみろ」下宿近くの早大ラグビーグラウンドが、トレーニング場となった。くる日もくる朝もー。ひとり黙々と「きっと誘いがくる。だれかが見てくれる」そう思って歯をくいしばった。いつか同大学ラグビー部でもうわさになり、藤島同部監督はしきりに感心して「山本を見習え」と、部員にいうのが口ぐせになったほどだ。一年半はすぎた。努力が実を結んだのか、ことしの八月には10㌔近くもやせることに成功した。しかし足はいっこうに速くならない。百㍍13秒がやっと。これには荒川コーチが頭をかかえこんでしまった。どこかに致命的な欠陥があるらしい。「お前の足では野球はむりだ。走らなくてもよいボウリングでもやったらどうだ」彼はまた泣いた。これで最後の望みを折られたことになる。寝られない夜が何日も続いた。目をつむると、甲子園でのはなばなしい活躍ぶりが浮かんでくる。巨人に入団した晴れがましいあの日のことも思い出される。そんな思い出はオレにとって何だったのかーそう自問すると、すべてがむなしく思えてならなかった。「オレはもともと野球に向いていなかったのか」野球古顧会の会長野口務さんは「スカウトが悪いんですよ」という。巨人軍二軍の鈴木総務課長にいわせると、スカウトの間違いはしばしばあるそうだ。「よくこういうのがまぎれ込んでくるんですよ。整理というと非情なようだけど、本人のためにも、できるだけ早くやめさせるようにしているんです」山本選手はいま、やっと野球への幻想からのがれ、プロボウラ―として生きようとしている。あれから三か月、荒川コーチの紹介で埼玉県蕨市のボウリングセンターに勤めたのだ。初めのうちはすべてが投げやりで無気力だった。しかし運動神経に恵まれているだけに上達も早い。たちまちアベレージ百七十点になって、同センターの先生におさまった。ストライクを出したときなどはとび上がって喜ぶ。荒川コーチは山本選手がこれほど明るく笑ったのをこの二年間見たことがなかったそうだ。「もう野球は気になりません。これからはプロボウラ―の王、長島になるようがんばるつもりです」
元巨人軍山本英規選手(22)が整理されたのは二年前の四十年十二月。ある日突然、下宿先へ球団からの一通の封書が舞い込んだ。まさかそれが整理の前ぶれだとは夢にも思わなかった。指定された日時に球団事務所を訪れると、ふだんあまり見かけないおえら方が机の向こうにいる。「実は、君はもう、うちの球団には必要なくなったのだ」とひとこと。一瞬、血が凍る思いがした。カーッとなり、立っている床に気がめり込みそうな感じだった。こんなとき「死んだ気でやるからもう一年使ってくれ」と泣きつく選手が多いことも知っていた。しかし、のど先まで上がってきたその固まりが、ついに声にはならなかった。気がついたときは逃げるようにして事務所を飛び出していた。どの球団でも整理はこのようにして行われるらしい。入団のときのはなやかさに比べ、その幕切れのあっけなさ。三十八年、名門広陵高から第二の長嶋と騒がれて入団したのが、きのうのよう。その年、足に死球を受けて働けず、つぎの年もまた死球を受けてダウン。泣いてくやしがった。このままでは父母に合わす顔がない。故郷にも帰れない。世間は契約金ドロボウというだろうー。だが、一晩泣いた彼は、つぎの朝はもう立ち上がっていた。「もう一度やる」心に誓って世話になった荒川コーチを訪ねた。「ランニングをやりたいのです」クビになったのはふとりすぎて鈍足だったからに違いない。それを直せば、またきっと使ってもらえるーそう思ったからだ。「よし、思うとおりやってみろ」下宿近くの早大ラグビーグラウンドが、トレーニング場となった。くる日もくる朝もー。ひとり黙々と「きっと誘いがくる。だれかが見てくれる」そう思って歯をくいしばった。いつか同大学ラグビー部でもうわさになり、藤島同部監督はしきりに感心して「山本を見習え」と、部員にいうのが口ぐせになったほどだ。一年半はすぎた。努力が実を結んだのか、ことしの八月には10㌔近くもやせることに成功した。しかし足はいっこうに速くならない。百㍍13秒がやっと。これには荒川コーチが頭をかかえこんでしまった。どこかに致命的な欠陥があるらしい。「お前の足では野球はむりだ。走らなくてもよいボウリングでもやったらどうだ」彼はまた泣いた。これで最後の望みを折られたことになる。寝られない夜が何日も続いた。目をつむると、甲子園でのはなばなしい活躍ぶりが浮かんでくる。巨人に入団した晴れがましいあの日のことも思い出される。そんな思い出はオレにとって何だったのかーそう自問すると、すべてがむなしく思えてならなかった。「オレはもともと野球に向いていなかったのか」野球古顧会の会長野口務さんは「スカウトが悪いんですよ」という。巨人軍二軍の鈴木総務課長にいわせると、スカウトの間違いはしばしばあるそうだ。「よくこういうのがまぎれ込んでくるんですよ。整理というと非情なようだけど、本人のためにも、できるだけ早くやめさせるようにしているんです」山本選手はいま、やっと野球への幻想からのがれ、プロボウラ―として生きようとしている。あれから三か月、荒川コーチの紹介で埼玉県蕨市のボウリングセンターに勤めたのだ。初めのうちはすべてが投げやりで無気力だった。しかし運動神経に恵まれているだけに上達も早い。たちまちアベレージ百七十点になって、同センターの先生におさまった。ストライクを出したときなどはとび上がって喜ぶ。荒川コーチは山本選手がこれほど明るく笑ったのをこの二年間見たことがなかったそうだ。「もう野球は気になりません。これからはプロボウラ―の王、長島になるようがんばるつもりです」