プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

高木喬

2014-12-27 20:47:23 | 日記
1962年

近鉄バファローズは十二日午後三時から大阪市阿倍野の球団事務所で、永江代表、別当監督が立ち会い、法大高木喬選手(22)=1㍍80、77㌔、左投げ左打ち=の入団を発表した。同選手は高校時代三国ヶ丘高の投手として活躍したが、大学進学後シャープな打力を認められ、一年生のとき服部監督のすすめもあって一塁手に転向した。レギュラーとして出場したのはことしの春のリーグ戦だったが、期待どおり四番打者の責をはたし優勝に貢献した。また秋のリーグ戦では打率・352をマークしてベストテン4位に入るなど、そのすぐれた素質ははやくからプロ球界に認められていたもの。背番号は5。

高木選手の話 近鉄、南海、阪急から誘いがありましたが、終始誠意をもって交渉してくださった近鉄を選びました。とくに法大の先輩関根さんもおられるし、別当監督を大いに尊敬していたからです。プロ野球はテレビでみるくらいで、あまり知識はありません。しかしこの世界に入った以上一生懸命努力して、一日も早くレギュラーになることが第一目標です。

別当監督の話 高木君のプレーをみたのは四度ぐらいだ。どの程度やれるかといわれても困るが、彼のすぐれた素質からみても、けっこうやれると確信している。
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三輪田勝利

2014-12-27 19:32:00 | 日記
1969年

「真っ向から逃げずにビュンビュンいきたい。僕の持ち味はこれです。とにかく力で勝負できるような投手になりたい」大勢の報道陣に取り囲まれながら臆するところがない。堂々と自分の考えを披露した。二年間、サラリーマン生活をしただけに、いうこともしっかりしている。「私生活にも注意して、絶えずベストの状態でプレーできるように心がけたい」と並みの新人とは違う発言をした。何勝するのが目標かと聞かれても「答えはシーズン末になると出るでしょう」とソツのない返事が返ってきた。二年遅れたプロ入りだが「自信のないままプロ入りするより、学生野球よりレベルの高いノンプロで二年間もまれたのはプラスだった」とはっきりいう。「僕の一勝を阪急でかけてみたい。またそれだけやりがいのあるチームだ。その自信ができたからこそプロ入りを決めた。一日も早くローテーションに入りたい」新人といってもすっかり大人の抱負を話す。「投手陣の中心は剛でなければならない」丸尾スカウトの持論だ。米田、梶本といったところが技の投手になりかけて、老化いちじるしい阪急投手陣。ここ数年、本格派の入団が待たれていた。まして阪急は今年、4連覇と悲願の日本一という使命がある。「つまり巨人に勝つためには力の投手がどうしても必要だ」とする西本構想もあって、三輪田の一位指名となったわけだ。「シュートを武器とする投手が巨人には有効」(西本監督)とすれば、この三輪田はうってつけ。183㌢、78㌔の恵まれた体から投げおろす速球、シュートへの期待は大きい。三輪田の加入は、長いことつづいたヨネ・カジ時代から、水谷、宮本らを中心とした若返りの投手陣へ動き始めたことを意味する。「テレビで一度見ただけだが、違い、を持っていたな。もちろん一年目から使うつもり。大学、ノンプロを出て、最初から登板できない投手はだめだ」とすでに西本構想に入っている。「10勝くらいは十分できる」と丸尾スカウト。「近い将来には阪急投手陣を背負って立つ投手になることは間違いない」と太鼓判を押した。常に栄光の道を歩いてきた。高校球界の名門、中京商時代からエースとして三度甲子園のヒノキ舞台を踏んでいる。三十七年の春夏、三十八年の夏の大会だ。三十八年は全日本のメンバーにも選ばれ、ハワイへ遠征した。早大入学後は二年の春から登板、二度の優勝を経験している。四十二年、卒業時には近鉄が一位にリストアップしたが、事情があってプロ入りせず、ノンプロ大昭和製紙へ就職した。大昭和時代は故障もあってほとんど忘れられかけた存在だったが、丸尾スカウトはあきらめなかった。通うこと八度。十一月の産別大会(後楽園)のピッチングで「九分どおり全盛期に戻っている」と一位にリストアップすることに決めたという。高校、大学、ノンプロを通じて真っ向から勝負してきた。速球で押し、シュートをずばり決める度胸のいいピッチングが売り物。精神的にもしっかりしており、少々のスランプにもくじけない気力がある。即戦力として阪急久々の本格派投手だ。
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成田文男

2014-12-27 18:51:42 | 日記
1964年

東京オリオンズは十七日午後二時、東京・南千住の球団事務所で、成田文男投手(18)=東京修徳高、1㍍77、73㌔、右投げ右打ち=と契約を完了、松浦代表が発表した。同投手は、昨年対都立杉並高戦で七回までパーフェクトを演ずるなど、本格的な速球派で、今夏の甲子園大会には東京都代表として出場した。大洋、巨人、阪神の誘いもあったが、地元東京の熱心な勧誘で入団を決めた。高校三年間の通算成績は16勝4敗。将来が期待されている。背番号は未定。

成田投手の話 東京は地元の球団だし、前から好きなチームだった。東京球場で試合もよくみせてもらったが、すぐにでもグラウンドへおりていって投げたいと思ったことがある。小山投手が大好きで、小山さんのようにコントロールのいい投手になりたい。

本堂監督の話 成田君のピッチングは一度テレビでみた。非常に素質のある投手であることを土居スカウトからも聞いている。こんご大いに努力して大成してくれることを望んでいる。

松浦代表の話 来シーズンのピッチングスタッフに大きな力が加わったと、大いに喜び期待している。地元の出身者でもあり、こういった点でも興味ある選手だ。
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富恵一

2014-12-27 18:19:23 | 日記
1963年

阪神タイガースは十一日午後三時、大阪梅田の同球団事務所で、関西六大学リーグで評判の高かった富恵一外野手(23)=関大、1㍍76、73㌔、右投げ、右打ち=の入団を発表した。同選手は山口県萩高校から関大へ進学、三十六年秋のリーグ戦でデビュー、代打専門で3割、代打ホーマーを放って一躍注目を集めた。三十七年春からレギュラーとして出場、3割8厘を打ち、同年秋には3割5分で打撃ベストテン第二位の成績、三十八年春・214、同年秋には・269を記録した。在学中のホームランは2本、センター中心に打つ中距離打者。
同選手をスカウトした河西スカウトは「一、二番打者に適している。足、肩もよく根性があり、先輩の藤井を右にしたタイプ」とみている。阪神のほか大洋、広島から誘われたが、西山、村山、藤井ら先輩の多いことを理由に阪神を選んだという。先輩の藤井に「サボらず、ガメツクやれよ」と激励され、仲よくカメラにおさまった同選手はプロ入りの抱負を次のように語った。「先輩がたくさんおられるという理由で阪神を選びました。働きがいのあるチームだと思います。プロ野球はあまり見たことがないのが、自分のようなからだでは中距離打者が適していると思います。プロのスピードについていけるかどうか…。とにかく早くプロの水になれたい。もちろん藤井先輩のようなタイプが目標です。はいった以上にガメツクのさばりたい気持ち。根性も藤井先輩をみならいたいと思います」
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杉町攻

2014-12-27 18:18:26 | 日記
1963年

三十四年の暮れ、西鉄は世間で騒がれた一億円攻勢の成果として杉町、井上善、安藤、中峰、倉内、鹿谷、神原、黒川、鈴木征らを獲得したが、その後の収穫があまりに少なすぎた。四年を経過した現在、戦力として残っているのは杉町、井上善、安藤、中峰、神原、倉内の六選手現在でも期待されているのは井上善、杉町の両投手と中峰の三人である。中でも杉町らは黄金の卵と騒がれながら投手から打者に転向、さるに内野手から外野手にコンバート、そして今春のウエスタン熊本トーナメント大会では、おりからの投手難が幸いしてインスタント投手の役目をふりあてられ、それに成功してふたたび投手としてカムバックした運命の持ち主である。当時を回顧して杉町は「あのときはどの程度投げられるか自分でもわからなかった。その前の長崎大会では外野手をやっていたんだからね。とにかく熱心に投げたのがよかった。フォームのぎこちなさがなくなり、球もよく走って、これならいけると思った。結局あれが僕の投手としての返り咲きに、大きな自信を与えてくれたのですね」という。公式戦の登板は六月二十五日平和台の対阪急戦だった。杉町にとって公式戦の登板はまさに三年ぶり。先発して4回1/3を無安打に封じる好投をみせた。試合後杉町は「スライダーをマスターしたのがよかった。それまでの僕はストレートとカーブなどでストライクをとってからの決め球に苦しんでいた。ところが外野手として遠投しているうちに、球が走るようになりそれまで一度ストップしていた右腕がスムーズに出てきた。自分でも投手としてやれるのではないかと欲が出てきた。その気持ちがスライダーをマスターするきっかけにもなったのでしょうね」と語っていたものだ。その後の杉町は、前半戦だけでも5試合に登板したが、勝ち星に恵まれず、後半戦ではジンマシンに悩んで戦列をはなれた。しかし一度みはなされた杉町の奇跡のカムバックは、大金を投じて獲得した球団関係者にとって大きな拾いものとなった。城島スカウトが「スギよかったな。お前がまた投手としてカムバックしてくれたのでオレはうれしくてしょうがないんだ」と自分のことのように喜んでいたものだ。重松コーチは「スギの打者転向は、なにも投手として使いものにならないという結論から転向させたのではない。ちょうど内野手(三塁)が手薄だったので、一時打者として使ってみようということになっただけだ。したがってその必要がなくなれば、いつでも投手としてカムバックさせるつもりだった」と強調していたが、それでも「外野手をやらせたことによって、フォームがスムーズになった」ことは認めていた。同コーチの説明では、外野の遠投がバックスイングを大きくし、さらにスローイングへのぎこちなさを自然のうちに是正させたそうだ。今シーズンの杉町は1勝もあげられないうちに戦列をはなれる結果にはなったが、首脳部が来シーズン杉町にかける期待は大きい。若林ヘッドコーチなどは「これから西鉄は新しい時代にはいる。その屋台骨をささえる人たちは田中勉、与田、安部、杉町、井上善ら若い力だ。もちろん稲尾や若生らベテランの力あってのことだが、彼らが持ち味をフルに発揮して投げつづけるためにも、田中勉ら若いものの力が大きくものをいってくるだろう」と語っていた。その点は和田捕手も同感で「これからは若い投手の時代だ。杉町や与田は今シーズン勝ち星こそなかったが、そのピッチング内容はりっぱなものだった。来年、そして再来年の投手陣を稲尾とともに背負って立つだけの力と素質をのぞかせていた。その意味からも、来シーズンの西鉄投手陣は、ことし以上の充実がみられるだろう」とうれしそう。いずれにせよ、わずか四年間に投手ー内野手ー外野手ー投手と目まぐるしく変わる環境下にあって、くじけることなく黙々と練習に励み、ついにその努力を実らせた杉町の不屈の根性は見あげたものである。
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加藤斌

2014-12-27 17:13:01 | 日記
1962年

中日ドラゴンズは一日午後五時半から東京都千代田区内幸町の東京中日新聞社で作新学院加藤斌(たけし)投手(18歳、身長1㍍81、体重74㌔、右投げ右打ち)の入団を発表した。加藤は今夏の全国高校野球大会でエース八木沢病欠場の穴を埋めてマウンドを守り優勝、高校野球史上初の春夏連覇の立て役者となった。サイドからの外角速球とシュートが主武器でコントロールは抜群である。また父親正三さんが柔道四段、母親リカさんが砲丸投げと走り高飛び、姉の智子さんが走り高飛びと走り幅とびの選手であり、スポーツ一家として恵まれた環境に育ったといえる。これで中日は児玉(旧姓=空谷)中山(中京商)についで三人目の夏の高校野球優勝投手を獲得した。

加藤投手の話 僕は未熟だから研修制度があるのはいいと思う。この期間中いろいろな点を勉強したい。具体的にはスピードをつけることだと思う。大洋の秋山さんは投げ方に共通点があるし、お手本にしたいと思っている。中日を選んだのはチームカラーが好きだったからです。
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篠田勇

2014-12-27 16:49:07 | 日記
1963年

北原代表が「立大のキャプテンで三塁手をやっていた篠田君です。きょう契約しましたので、来季から国鉄の選手として大いに働いてもらいたいと思います」と入団のあいさつ。一斉にフラッシュがたかれると、篠田選手の顔は紅潮した。グラウンドの猛者もなれないふんいきに弱ったような様子だ。「来季からは国鉄の戦力になってばりばりやってもらいたい。六大学のスタープレーヤーだったのだから、ベンチをあたためることのないようがんばってもらいたい。プロの水は決してあまくはないのだから」と浜崎監督は新人をあまやかさない。篠田も一言一言にうなずきながら聞いていた。「テレビでは篠田君のプレーをみているが、実際にプレーをみていないので、どこに使うかポジションはまだわからない。どこをやらされてもついてこられる根性をもっていなければダメだ。大いに意欲を燃やしてもらいたい」監督のことばに、篠田はゆっくりした口調で「一年のときはショート、二年のときはセカンドもやった。だからどこをやらされてもやれないことはない」また国鉄を選んだ理由については「先輩がたくさんいるし、チームカラーがすきだから入団に踏み切った」月並みな答えであることをじゅうぶん知っているからか、肩をすくめてにっこり笑った。国鉄には近く明大の石岡、倉島も入団する。それだけに篠田は明大組をライバルとして激しいファイトを燃やしている。「いっしょにプレーした間だから、彼らには絶対負けたくない気持ちがあります」といって、きらりと目を光らせた。水戸商高、立大ではいずれも主将をつとめた篠田のシンは強そうだ。三十六年春・409、三十八年秋には・339でベスト・テンの第二位(満票でベスト・ナインに選ばれている)高校時代には三十四年夏、三回戦で高松商に敗れはしたが、甲子園にコマを進めている。当時の高松商には石川(東映)岡村(阪急)らがいた。輝ける球歴をもつ篠田だが、プレーは性格同様に堅実だ。話が一段落したところで、浜崎監督が例によって篠田の胸にスワローズのユニホームをあてがったが、篠田はそのユニホームを取るようにして着ると、満面にえみをたたえた。浜崎監督が「大きなやつと並んで写真をとられるのは苦手だけど、篠田君は小柄だからちょうどいいや、オレの方が高いんじゃないか」と得意のジョークを飛ばして背伸びすると、篠田はすまなさそうに背をかがめる。こんな後輩を見守っていた立大の先輩砂押ヘッドコーチは「からだは小さいけど、自分に合ったプレーをする選手だ。バッティングもなかなか幅がある。守備もうまいし、足も速い。地味だが期待をかけて間違いない選手だ。内野をやることになるわけだが、高校時代には北関東で安藤(土浦一ー慶大ー阪神)と一、二を争うほどの選手だった。そのときは遊撃をやっていたのだから、内野はどこでもやれるはず」とたのもしそうに見守っていた。
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石幡信弘

2014-12-27 16:06:36 | 日記
1970年

十二月末に退社すると福島県・太田市の社宅から世田谷区のアパートへすぐ引越しした。合宿で食事付きの独身生活とは違う。二十歳で富士子夫人と結婚。二十五歳で三歳になる弘美ちゃんのパパだ。そのせいか二十五歳の年齢以上に落ち着いている。そして、サラリーマン生活七年の重みが柔らかな物腰ににじみ出ている。「やりますではない。やらねばならないんですよ」といい切ったときの表情と口調には、東北人特有の一途さ、粘りと根性があらわれていた。福島商時代は全くの無名に近かった。二年のとき、東北大会で決勝まで進んだが、及川(現大洋)のいた東北高に敗れ、中央球界に名を出すまでにいたらなかった。福島商を出ると日本鋼管に入社したが、すぐ清峰伸銅にかわった。石幡の名前が出たしたのはこのころから、三十九年からつづけて三回、清峰伸銅、電電東北に補強されて都市対抗のマウンドを踏んだ。しかし、当時は「球の早さ、球威は抜群だがコントロールがー」無制球の壁が自滅へ導いていた。その粗削りなところが取れたのが富士重工に再就職してから。それと同時にサウスポー石幡の名は上がり、昨年は対活躍。夏の都市対抗で富士重工を初めての準優勝に導き、自らは久慈賞に輝いた。「自信ができたのはそれから」であり、大洋スカウト連をうならせたのであった。ドラフトで投手は左ばかりと太田(三沢高ー近鉄)にさえ振り向かなかった大洋。鬼頭が一本立ちするメドがついたとはいえ、ドラフト後にただ一人の実績のある左の平岡をロッテに移籍させては、石幡にかける期待はますます大きくなる。」「社会人からの場合はまず、即戦力かどうかを検討して取ったんだからやれますよ。平岡の穴埋めを」と宮崎スカウト部長。湊谷スカウトははっきり「やれる」と確信している。「石幡には武器がある。あの大きく落ちるカーブは打たれない。コントロールもいいし、2、3イニングなら十分」という。大洋には先発要員はたくさんいるが、救援でピシャッと押えれるのが池田一人しかいなかった。平松が先発、救援にと重労働を余儀なくされたのもそのため。「あと一人救援の切り札がいれば…」と鈴木コーチ。石幡への期待は二重に大きい。堅実なサラリーマン生活を捨て実力一本の世界に飛び込む、しかも妻子がいてー。なかなか決心のつくことではない。それだけに、決意は堅い。「プロ入りのことを一番心配したのはやっぱり女房です。生活、子ども、将来のことー不安だらけですからね。でも、もうUターンはできない」妻子をかかえて、待ったなしの勝負がかかっているので、のんびりしたことをいっておれない。「目標?関係なしですよ。力いっぱいやるだけ。すべてを投げ打って、プロに飛込んだのは、プロが野球の最高レベルの場だと思ったから。生活からすべてをかけて、最高のものに挑戦するんです。だから、ごまかしも逃げもいや。昔ほどの速さも球威もないが真っ向から勝負がしたい」といい切る。酒、タバコはおろか、マージャンも知らないマジメ人間だが「尊敬する郷土の先輩(鈴木コーチ)のような小気味のいいピッチングがしたい」といっている。
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小久保勲

2014-12-27 15:40:23 | 日記
1964年

小久保勲外野手…18年1月8日生 173㌢ 74㌔、右投げ、右打ち、中京大三年中退

小久保選手は昨年中退して中日にはいった木俣の先輩。三十八年春、秋、さらにことしの春と三シーズン連続ベストナインに選ばれた愛知大学リーグの代表選手。三十八年春には・472の好打率をマークして首位打者になった。通算打率は・293、本塁打2本。

小久保選手の話 中日のゲームはテレビで見ただけでなにもわかりません、大学時代の経験を生かしてがんばりたい。
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赤坂光昭

2014-12-27 14:51:10 | 日記
1968年

産経は十九日正午、東京・有楽町の球団事務所で赤坂光昭捕手(18)=宮城県築館高、1㍍78、75㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。同捕手はドラフト会議では指名されなかったが、宇高スカウトが早くから目をつけていた大型捕手。甲子園大会には東北高に負けて出場出来なかったが、日大山形の柳橋投手からホームランを打ったこともある強打の持ち主。
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別部捷夫

2014-12-27 14:49:53 | 日記
1962年


「捷夫はね、子供のころから人一倍負けん気の強い子でしたよ。戦時中初めて授かった子なんで捷夫と名づけたんですがね」発表の席に同席した父親岩雄さん(48)は目を細めてわが子の晴れ姿を見つめていた。別部が鳴門高ー明大を通じてこれといったタイトルを取っていないのに四番をつづけてきたのも、負けん気につちかわれた勝負強さによるものであった。郷里の徳島県板野郡大麻町は板東の姓を持つ家が数十戸あるが、別部は板東中学時代捕手として現中日の板東投手とバッテリーを組み、鳴門高時代は現近鉄の板東投手の女房役としてマスクをかぶった。もちろん打の面でも名物うず潮打線の四番バッターとして強打をふるった。明大進学後はチームの捕手層が厚かったのと強肩、俊足を買われて外野手に転向した。二年生秋のシーズンには四番として早くも頭角を現し、三年には五番に下がったが、四年になると再び四番の座に帰り咲いた。三年の秋には東大長田投手から神宮のレフトスタンドに入るホームランを奪って長打力が注目されたが、別部の本領はむしろ中距離打者であろう。しかし四年になってからも腕力に頼る別部の打力は荒かった。気にした別部は春のシーズンにももっぱらライト方向をねらったが、これは彼の持ち味を殺すものーと島岡監督のアドバイスがあり、再びプルヒッターに戻った。そして六月、チームの韓国遠征で「ボックスに何気なく入った際、ふっとタイミングの取り方がひらめいた」ため迷いから覚め、実に7ホーマーをおみやげに帰国した。そして迎えた最後のシーズンでも前半打ちまくり、このころからプロ入りに傾いた。そこへ国鉄から楠見、西垣両重役を介して誘いがかかりプロ入りに踏み切ったもの。このほど日立製作所の好意と島岡監督の力ぞえで円満にスワローズ入団が決まった。1㍍74、73㌔の体は図抜けて大きい方ではないが、腕っ節は強い。「腕相撲なら明大合宿に敵はいません」という頼もしい別部の太い腕に期待しよう。
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